1990.07 |
外務省の調査によると、昭和62年現在、全世界に在留する日本人の数は50万人を超え、そのうち3か月以上の長期滞在者が27万人、また永住者(日本国籍保有者)は25万人弱にのぼっており、この両者の合計が50万人を突破した。この在留者を大陸別に見ると、
1位が北アメリカで19万5千人(37.6%)、
2位が南アメリカの14万8千人(28.5%)、
3位が西ヨーロッパの8万人(15.5%)、
アジアは約6万人(12%)の順となっている。
この数字は前年度の昭和61年と比較して4%の増加であり、10年前の昭和52年との比較では123%の増加率を示し、この先増加傾向は続くと思われる。次に永住者の数だけをみてみると、昭和52年では約26万人いたものが、10年後の62年には24万8千人と逆に減少している。これは国際化と共に毎年国外に流出する人口が増大しているにもかかわらず、国際間の交通が比較的容易になったため、移民や永住者の数は逆に減少している理由であると思われる。なお日系人(日本人国籍を持たない)は昭和61年の統計では全世界で140万人、このうち南米が61万人、北米が71万人となっている。つまり海外在留者の6倍近い数の日系人がいることになる。
日本人が最初に海外に移住に乗り出したのは1868年(明治元年)のハワイで、その数は153人である。ハワイへの移民は、砂糖キビ耕地に3年契約の労働者として渡ったのである。その後移民はいったん途絶えるが、17年後の1885年から毎年多数の移民が送り出されるようになる。こうしたハワイ移民は、日本政府とハワイ政府の契約によって行なわれた。この官約移民には山口、広島、岡山、和歌山、滋賀、三重、静岡、神奈川、宮城の各県の人たちが応募し、選ばれた945人が、「シティオブトウキョウ号」でハワイに向かった。ハワイ移民の労働条件は日本国内の賃金の3〜4倍も高かったため、初期においては、募集人員600人に対して50倍に近い2万8千人の応募者が集まったこともある。
ハワイへの官約移民は1894年(明治27年)までに26回続き、この間2万9千人がハワイに渡っている。契約満期後の帰国者数は約半数の1万4千人で、死亡者数は1割弱の2,000名である。移民が行なわれてから5回までの死亡者数をみてみると、第1回は834人のうち72名。第2回、974名のうち111名、第3回、923名のうち80名、第4回、1,441名のうち150名、第5回、1,063名のうち110名と1割近い死者を出している。(数字は『アメリカ西部開拓と日本人』鶴谷寿より)
1894年、日清戦争の開戦によりハワイ移民が民間移民会社に移された。この戦争が日本の勝利に終わったため日本人の海外熱はいっそう刺激され、1894年には4千人だった海外移民が1896年には9千人を超し、1898年(明治31年)には始めて1万人を突破した。
日本が移民に出た地域は、シベリアと中国大陸を除いて気象条件の厳しい熱帯地方であった。したがって外国に来たものの過労と栄養不良、伝染病などの被害は並大抵のものでなかった。その最初の犠牲者は英領フィジー諸島への移民である。1894年(明治27年)日本吉佐移民会社が甘蔗園労働者として305人をフィジーに送った。ところが現地の衛生状態の悪さ、労働条件の厳しさなどにより9割り近い270人が病に倒れた。連絡を受けた政府は全員の引き揚げを命じた。しかし帰国途中の船内で25人、神戸上陸後の5人の死亡を含め帰国者のうち106人が死亡した。
この年から8年後の1903年(明治36年)、日本から1,500人がフィリピンに渡った。首都マニラと避暑地のバギオを結ぶ道路建設に従事するためである。この時の工事で1年余りの間に、半数近くの700人が死亡したという。1日平均2名以上の死者が出た勘定で、この時遺体を埋葬した人は次のように証言している。
「死人は大抵やせ衰えて、見るも無残な有様でした。これを埋めるときなど全く可哀相で、目をつむって土をかぶせたものです。又急坂などに埋めた後に大雨が降ると表土が流れて死体が露出し、山鳥が集って来てこれをつつき散らすなど、思い出すだに身の毛もよだつような残酷なものでした。」この工事の後、生き残った者も帰国しようにも旅費がなく、やがて彼らはミンダナオ島に進出した日本企業とともにマニラ麻の会社を作り、ミンダナオ島の首都ダバオ市を繁栄に導くことになる。しかしその間の苦労は大変なもので、ダバオ島には日本人の移民者は1万4千人ほどいたが、そのうち4千人が死亡し、うち600人は蛮人によって殺されたという。
わが国から南米移住第1号は、1886年(明治19年)アルゼンチンに渡航した牧野金蔵である。1889年には、高橋是清が日秘鉱山(株)を設立し、銀山開発のためペルーに乗り込んでいる。また1893年、ハワイに出稼ぎに行っていた日本人のうち144人がグァテマラに転住している。同年、榎本武揚は海外移住を推進するため殖民協会を創立し、メキシコに約6万5千町歩の土地を入手、1897年、34人を横浜港から送り出した。
1899年(明治32年)には南米のペルーに向けて790人が「佐倉丸」で渡航した。しかし2年間に2割近い136人が死亡している。その後メキシコへの移民が盛んになり、1906年には5086人、翌年には3,822人の移住が行なわれた。
ブラジルへの移民は1908年(明治41年)に781人が「笠戸丸」によって始められた。熱帯病のマラリアには日本移民の多くが罹患し、平野植民地では入植第1年目にして82家族のうち、80人が犠牲となった。ついに「死者を埋葬する人もなく、死後数日遺体を放置」するまでとなる。1925年(大正14年)、現地を訪れた日本人の調査によると164戸のうち144戸の家族はマラリア患者を有し、43人が死亡したという。64年後の1972年でも、ブラジル保健省の調査によると、9千万人の人口のうちその35%が何らかの病に犯され、寄生虫患者だけでも2,300万人いるという。ましてや当時の衛生状態の悪さは想像を絶していたと思われる。
1929年(昭和4年)、鐘淵紡績はアマゾン河口に移住地を建設、戦前2,000名の移民が入植したが、23年間で285人が死亡した。死因はマラリアが1位で、次に事故、赤痢などである。
日本人のブラジル移民は82年を迎えるが、これまでに総計約24万人が渡航した結果、1985年現在約80万人(うち日本国籍約12万)という日系人社会を築くに至っている。なかでもサンパウロ州は日系人が集中しており、日本人永住者の75%に当たる9万人が居住している。今回、サンパウロ大学のゴットリーブ教授は、サンパウロ市役所に届けられた1979年から1981年までの3年間の死亡票の中から、出生地が日本(1世)で居住地がサンパウロ市にあるものを抽出し、性、年令、死因を調べた。
1980年現在、サンパウロ市の日系人は5万59人。うち50歳以上が63%の31,514人いる。1979年から1981年までの3年間の死亡数は、男性が1313人、女性が1033人の計2346人。死亡原因は糖尿病(女)、虚血性心疾患、交通事故、他殺によるものがあり、これらは日本国内の2倍以上の死亡率があった。逆に結核(女)、その他心疾患、自殺は半分以下であった。(『日衛生誌』88年4月)
1880年(明治13年)のアメリカ国勢調査によると、全米の日本人はわずかに合計148人であった。一番多いのはカルフォルニア州の86人。アメリカ歴史統計の『国別に見た移民者数1820〜1970』によると、日本人が最初にアメリカに移民した年は1861年の1名である。その後の目立つ動きとして、1886年に194人が移住している。1千人人を超えた年は1891年で1,136人、1900年には始めて1万人を超え12,635人となっている。
1897年(明治30年)外務省は東南アジア、アメリカ、カナダに棲む日本人醜売婦の実態調査をした。アメリカ国内での日本人醜売婦数は約311人で、事実はもっとあると思われる。彼女たちは日本人の移民が集団で生活する地方なら、どこにでも出かけていったのである。彼女たちは日本から直接アメリカに渡った者、カナダ経由の者、アジア経由で渡った者である。
1905年(明治38年)の『在米日本人年鑑』によると、当時の在米邦人数は6万1384人で、うち11,683人が鉄道労働者となっている。海外労働者の受け入れで難色を示している日本政府も、かっては労働力輸出国だったのである。
1908年に日米紳士協定が結ばれてアメリカへの移民が大幅に制限される。この法律によって、移民はすでに渡米している日本人移民の妻子に限定されることになった。先に上げた『アメリカ歴史統計』で確認してみると、この法律が作られる前年の1907年には3万人を超えていた移住者数が、1909年には10分の1の3千人に激減している。
多人種、多民族のアメリカ社会の中で、社会の圧力に対抗するために自衛と相互扶助のためのいくつかの日本人組織が作られた。1905年(明治38年)サンフランシスコに「在米日本人連合協議会」が設立され、それが3年後には「在米日本人会」に発展した。各地の日本人会は「醜業の男女の追放、誘拐者の捜索、賭博撲滅、排日問題対策」などが主な活動だった。やがて日本人会は、出生、死亡、婚姻などの届けをはじめ、兵役猶予、営業証明、居住証明、旅券下付など領事館への各種の出願事項にたいする証明権も持つようになる。
1919年(大正8年)、日本人独身男性が圧倒的に多い移民社会で、同国人の妻をめとることは大きな問題だった。そうした必要から生まれた「写真結婚」も日本側の自主規制で、花嫁のアメリカ行きの旅券の配給が禁止となった。1912年(大正1年)から1920年(大正9年)までの9年間の写真花嫁の渡米数は6,988人と記録されている。
1935年、「シカゴ日本人共済会」が創設された。その理由は過去14、5年、シカゴで約50人の日本人が死亡したが、そのうちおよそ40人は葬儀費用を持ち合わせておらず、同胞の寄付によって葬儀が営まれた。しかしその墓地は別々で、なかには灰骨がどこにあるのかわからない者がいた。従ってこうした事態を改善するために会が設けられた。この会の理事の一人が語るには、「ある日本人がピストル自殺をしたが、その男が無一文だったので、日本人から寄付金を徴収し、そのお金で葬儀を行なった。しかしシカゴ市内のどの墓地も日本人のために墓を売ってくれなかった。そこで苦心したあげく市の郊外にやっと墓地をみつけ、そこに埋葬した。」こうしたことがきっかけとなって「シカゴ日本人共済会」が作られたのである。
1.会員死亡の際、自費葬不能または不足の場合、理事会の決議を経て葬儀費用を支出する。ただしその金額は120ドルを上限とする。
2.非会員又は失格者が死亡した場合、理事会の決議を経て、応急の処置を取る。
(3〜7略)
8.在留邦人の入院又は死亡の際は、種々の便宜を与え、且つ日本人共同墓地および納骨堂の利用を提供すべし。
日本人会ができた1935年、早くもモントローズ霊園の一角を共済会共同墓地として買い取っている。その価額は600ドルである。
1937年には2,000ドルの予算でモントローズの日本人墓地の一角に納骨堂を完成。その表面には「日本人共同墓碑」と刻まれている。
1935年8月、インディアナ州の田舎の鉄路で日本人が轢死。会としてどう処置したらよいかの打ち合わせを行なった。死者の両親はデンバーにいるが、経済力は余り豊かではない。打ち合わせの中心は「葬儀費用」を会から出すか出さないかであるが、結論として先方から申し出があれば扶助するが、そうでない場合には香典として25ドルを進呈するということで決定する。しかし会長から先方からの申し出があればの結論は余りにも不手際として、再び会を催した。参加者の1人が報告するには、「すでに該地から死体を引き取り、当地で火葬にして両親のいるデンバーに移送し、そこで仏式の葬儀を行なう」とのこと。そこで会としては香典を父親の名宛てに送れば十分であると結論。1通の悔やみ状と25ドルの銀行券を死者の父親に贈った。
太平洋戦争が始まると共に共済会の活動が中止された。ただし会員の中から死者が出たときには警察に届け、葬儀を行なった。
葬儀にさいして弔問者が香典を持参する風習が、そのままアメリカでも続けられた。しかしその額は12ドルとか、32ドルと大変小額であった。また死亡した人の日本の実家に死亡通知を出すと、その返事として「適当に処置して下さい」と書いてあるものやら、「葬儀費用」にとお金を送ってくる場合もある。身よりのないまま孤独のうちに死亡すると、検視官がやってきて所持品はすべて密閉をしてしまう。このまま1年間置いて、どこからも問い合わせがなかったりすると、財産はすべて州のものとなる。こうした無縁仏は、シカゴ日本人共済会が預かっているだけで、1984年までに65体あるという。
1941年に始まった太平洋戦争は、海外(特にアメリカ)にいる日本人に多くの試練を与えた。1942年、2世の看護婦が自動車事故で死亡した。しかしシカゴとその周辺の墓地では埋葬が拒否され、遺体は1週間以上も葬儀社に放置されたままだった。関係者の奔走でやっとモントローズ墓地で火葬して葬ることができた。
1947年に「共済会」が26ケ所の墓地に「日系人の埋葬の承諾有無」を問い合わせたところ、回答のあったのは3ケ所だけで、このうち1ケ所だけが承諾の回答だった。その1ケ所はすでに共済会が使用しているモントローズ墓地である。
1942年、日本人は敵性外国人として3250人が逮捕された。また日系人11万人はカルフォルニア州マンザナ収容所を含む、多くの収容所に送られた。
1965年(昭和40年)移民法改正案が通過成立。これにより日本から年間2千人から4千人の移民が認められることになった。同法実施以前の日本人移民割当は年間185人であった。
「シカゴ日本人共済会」は1942年に定期総会を開き、そこで過去1年間の活動報告を行なった。主な内容は、郡立病院と養老院へ入院中の日本人の慰問、身寄りのない日本人死者の葬儀費用について社会局に交渉5件、遺骨埋葬のため出張7件、墓石の世話6件。現在納骨堂に収納されている遺骨は170体。モントローズ墓地北側の隣接墓地44区画を1区画約170ドル(約2.6万円)、合計7188ドルで購入を可決。(資料、伊藤一男著『シカゴ日系100年史』シカゴ日系人会発行)
1970年(昭和45年)、日系人は白人、黒人、アメリカンインディアンについで4番目を記録した。その数は59万1290人である。
『高知新聞』の記事(89年10月18日)にたまたま、ロサンジェルス在住の主婦の飯沼信子さんが、ロスの日系人の葬式のことを書いている。それによるとロサンジェルスに二つ日系人の葬儀社があるという。その一つが福井葬儀社である。初代の福井社長は1920年頃、市内でホテルと家具店を経営していたが、自分のホテルで死亡する宿泊客が多いことに気づいた。移民初期の日系人は若い人が多く、身寄りのない死者もいて、日本の家族への連絡もできず、福井さんが自費で葬式を出した例は、数えきれないほどだという。その頃には月に10件くらいだったのが、日本人が増えるに従って本業のホテルと家具店を閉め、葬儀社一本になったのである。
日系人の葬式は90%が夜で、できるだけ木曜から金曜の夜になるようにするという。これは1世が、昼間仕事を休んでまで葬儀に出る経済的余裕がなく、その習慣が現在も続いているのだという。香典の習慣も日系人だけである。日系2世までは、親の習慣に従っているが、3世以降になると、その習慣は廃止されつつあるという。
海外移住の業務を取り行なっていた移住事業団は、1974年(昭和49)技術協力事業団と合体して「国際協力事業団」を結成。これまでの移住業務は移住部に引き継がれている。またこの事業団の役割の一つに「国際緊急援助事業」があり、海外における大規模な災害に対して緊急援助活動を行なっている。1988年7月、アルメニアで死者2万5千人を出した大地震には災害専門家チーム27人を現地に派遣している。こうした活動を通じて日本の国際的評価貢献に尽くしている。ちなみにこの事業団の平成元年度予算は1,237億円である。