1990.05
死亡広告の歩み

  新聞で最初に見る欄は「死亡記事」や「死亡広告」であるという人が多いという。特に会社での取引先に堪えず注意をはらっている営業部、総務部の者にとっては仕事の一つでもある。死亡広告にはある特定のスタイルがあって、それが死亡広告を単調なものにしているのだが、なかには時の移り変わりや個性を語るものがあってなかなか見逃せない。今回の特集ではそうした「死亡広告」を取り上げてみた。(文章は一部読みやすく「、」「。」を付け、訂正してありますのであしからず)


明治

初めての死亡広告

  新聞に最初に死亡広告が掲載されたのは、明治6年1月14日、『日新真事誌』紙上である。
「本月12日の朝、外務少輔上野景範の父上野景賢病死せられ、来る15日午後第1時、築地仲通り同氏邸宅より出棺、芝伊更子大円寺え葬送相成筈に付、同氏友人等の為に之を報告す 上野氏友人」
なおこの前年の8月に青山墓地が出来ている。

  毎日新聞の前身である『東京日日』紙上では、明治9年(1872)9月27日が初めて死亡広告が出た。書き出しには「世古延世死葬ノ報」とあり、「病死につき22日死亡、24日青山南町三丁目墓地へ埋葬した」との通知である。2番目の死亡通知は翌明治10年2月26日のものである。「当銀行取締役三野村利左衛門儀 久々病気之処療養不相叶 昨21日死去致候 此段各株主方へ公告仕候也 明治10年2月22日 第一国立銀行」


初めての会葬御礼公告

  「去る1日、兄井上良一の埋葬に会せられたる諸君中或は貴姓大名を記し泄し或は其貴居を詳にせざるものあり 因て新聞紙を以て右の諸君へ其厚意の辱を謝す 寺田泰造」(明治12年2月3日紙上)


初の黒枠広告

  死亡広告に黒の太い罫で囲む習慣は死亡広告が始まって4年後に現われている。『東京日日』紙上での初の黒枠広告は、明治10年11月22日。明治の元勲後藤象二郎の娘の死を悼み、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の弟が出したものである。この死亡広告を黒枠で囲む習慣は、明治30年代にはほぼ定着している。


間に合わなかった死亡予告広告

  最後に死目に合いたいという人のためであろうか、自分の死亡広告の文章を書いた人がいた。「甫周儀私方へ移住後快気の方に者候得共、何分大患にて全快の見込無之候間、同人へ御用候はば生前速に被仰度此儀以参申上の所、御宿所不分明の向も有之且つ昼夜大混雑にて暇無之候間乍略儀以新紙奉申上候 牛込天神町六番地 桂川甫策」この広告が出たのは明治14年9月26日。新聞が出る1日前に桂川甫策は亡くなった。


在日外国人の死亡広告

  明治6年に来日したお雇いフランス人ガンベーグロースは、明治14年11月赤痢のため死亡、61歳だった。その時、死亡広告が親友のボアソナードによって出された。
「良友ガンベーグロース氏、療養叶わず去る18日死去。就いては本日午後3時半、三年町四番地出棺、青山墓地へ埋葬す。11月21日 ボアソナード」


ご供物辞退の広告

  有名な国語学者の大槻文彦は、明治23年12月25日、妻の死を告げる死亡広告を出した。
「大槻文彦妻いよ。久々病気の処21日病死之段知友諸君に告ぐ。葬式は同25日午後3時、芝高輪東禅寺にて執行、但し見送並びに造花御寄贈等の儀は平に御控可下候敬白 大槻修二」

  福沢諭吉の死亡広告にも、ご供物辞退の文面が掲げられている。
「父諭吉儀病気の処養生相叶わず、昨3日午後10時50分死去致候。葬式の儀は来る8日午後1時自宅出棺麻布善福寺に於て相営み候、この段御知らせ申上候也。追て生花造花香奠その他一切の御贈物は亡父の遺言により堅くお断り申し上げ候。明治34年2月4日 福沢一太郎、福沢拾次郎」


濃尾地震の死亡広告

  明治24年10月28日、岐阜、愛知の両県で死者960名を出す濃尾地震が起きた。この時犠牲となった死亡広告が出た。「故大垣区裁判所検事従七位高橋清茂始め挙家6名、客月(先月)28日任地大垣に於いて震災の為死亡し、その遺骨到着候に付き、来る14日午後第1時(住所)出棺本郷区駒込吉祥寺へ埋葬候間この段辱知(じょくち)諸君に謹告す」(『東京日日』10月12日)


葬儀はしないという広告

  明治27年8月『東京日日』に次の死亡広告が掲載された。「…神佛に帰すべき霊にあらず因て神佛祭事を要せず、直に火葬場に於て焼き棄て骨灰を残さず、墓地を設けず候に付旧知諸君の来葬を謹んで謝絶す。実父敬業本日5時15分死去致候に付ては前記の遺書に基き別段葬送を相営み不申候間此段生前の旧知諸君に謹告す 明治27年8月25日 福田東吾」福田敬業は石川県の出で、詩人。本業は薪炭問屋、書店でもあった。


遺体解剖後に葬儀

  「父泰吉儀永年脊髄炎に罹り居候処腎臓出血症を併発し、竟に療養相叶わず、26日午前4時死去致し候。遺言により医科大学に出願し候処、解剖後29日午後1時(住所)の自宅出棺。称名寺に於いて葬儀相営候段生辱知諸君に謹告す 5月27日」(『東京日日』明治31年5月)当時は医学実習用の為の解剖は、囚人死刑人の遺体を解剖していた。明治14年には「解剖千体祭」を行なっている。


無宗教葬儀の中江兆民

  ルソーの『民約論』の訳者である思想家の中江兆民は、明治34年12月、咽喉ガンで死亡した。その時の死亡広告は「中江篤介儀本日死去致し候に付き、この段為御知申上候也。明治34年12月13日 遺言により一切宗教上の儀式を用いず候に付、来る17日午前9時(住所)自宅出棺、青山会齋場に於いて知己友人相会し告別式執行致候間この段謹告候也 友人板垣退介 大石正巳」なお告別式に先立つ14日、遺言により彼は大学病院で解剖、直ちに火葬されている。


会葬者には国鉄が運賃を2割引に

  明治36年1月18日に死亡した真宗本願時派菅長大谷光尊伯の場合、死亡広告と並んで、葬儀参拝者に国鉄が2割引きするという広告を出した。「当山法主違礼之処、薬石効を奏せず遂に今月18日遷化相成候。葬儀は来月7日午後1時洛東蓮華王院境内に於いて修行仕候条この段広告候也。追て生花造花供物放鳥御寄贈の儀は、宗規上都合有之予め御断り申置候也。明治36年1月28日 本派本願時執行所」
  「前大法主御葬儀本月7日於京都御修行に付き鉄道作業局は右参拝者に対し、特に便利を与え、3日より9日迄左記の各駅より京都行2割引往復乗車券を発売せられ候依てこの段有縁の人々に広告す 新橋、横浜、平沼、国府津、沼津、静岡、浜松、豊橋、岡崎、名古屋、一宮、岐阜、大垣。2月1日築地本願寺」


日清・日露戦争始まる

  日露戦争は明治37年2月8日、仁川、旅順での日本軍の奇襲攻撃で始まった。旅順港閉鎖作戦中、3月27日敵弾を受けて死亡した広瀬中佐の死亡広告が4月3日に出た。「弟武夫、武運目出度き戦死に対し、懇篤沈痛なる弔電弔詞を忝うし、家門の栄之に過ぎず並びに謹んで満腔の感謝を表す 戦地にて 実兄広瀬勝比古、大方諸彦」続いて4月10日新聞紙上に葬儀通知が掲載された。「海軍中佐従六位勲四等功三級広瀬武夫儀。旅順口に於いて戦死候に付き、本月12日午後1時築地水交社出棺青山齋場に於いて神葬仕候。追而国家多事の際に付き、生花造花放鳥その他御贈與の儀は一切御辞退申し上げ候。明治37年4月6日」


自分で書いた死亡広告

  明治時代の小説家、斎藤緑雨は死の2日前に、自分の死亡広告を次のように書いた「緑雨斎藤賢(本名)本日目出度く死去致候、この段謹告仕候也。年月日」実際には次のように掲載された。「僕本月本日を以て目出度死去仕候間この段広告仕候也 4月13日緑雨斎藤賢」明治37年のことである。


  明治37年6月15日、軍用船常陸丸が敵艦の砲撃を受けて沈没。乗員600余名が死亡した。死亡広告は次の文面である。「常陸丸殉難近衛後備歩兵第一連隊須知中佐以下将校同相当准士官下士兵卒635名の為、来る20日午前7時、田安門内兵営出棺青山練兵場に於いて合同葬儀を執行す。追って団体を以て会葬相成度向はその代表者に於いて来る15日迄にその人員申込ありたし。8月8日近衛師団葬儀委員」


真白き富士の根緑の江ノ島

  明治43年1月23日、開成中学生徒12名と、同地の小学生1名が無断でボートに乗り江ノ島目指して行く途中で転覆、七里が浜で全員死亡した事件が起きた。その翌月1日『東京日日』に死亡広告が掲載された。「去る23日、本校生徒遭難の際は早速御丁寧なる慰問を賜り辱く奉存候。御陰を以て昨27日屍体全部発見し、夫々遺族へ引き渡し候。直ちに拝趨御礼可申上筈の処、取り込みの際御伺漏も可有の候間不取敢紙上を以て右御報旁御答礼申上候以上 明治43年1月28日 私立逗子開成中学校校長田辺新之助」


  明治44年11月には俳優の川上音二郎(48歳)が死去した。その葬儀は全国新派俳優一同の公葬で行なわれた。「故川上音二郎氏葬儀は当組合協議の上、全国新派俳優一同の公葬として執行仕候間此段各地同業者諸君に広告候也 追而葬儀は来る11月18日午前9時大阪北浜帝国座出棺一心寺に於て相営候間、当日は可成休演御会葬相成度候 東京新派俳優組合 大阪新派俳優組合」(11月16日紙面)


乃木大将夫妻の殉死

  明治45年7月に御逝去した明治天皇の大葬が9月13日行なわれた。この日、乃木希典・夫人が殉死した。7月15日の『東京日日』に次の死亡広告が出た。「陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵乃木希典本月13日午後8時薨去。引き続き夫人静子逝去致し候に付、来る18日午後3時自邸出棺青山齋場に於いて神葬致し候間此段御通知申上候。追て生前の素志に拠り供物等一切御断り申上候 大正元年9月17日」


葬列を廃する広告

  葬式に行列を作って野辺の送りをするのが普通であった。しかし都市部では交通事情などにより、葬列が出来なくなってきた。そこで次のような広告が現われる。「長男法学師河村修儀相州小田原に於いて病気療養中の処、養生相叶わず、本日午前零時10分死去致候間この段謹告仕候 追て来る31日午前8時乃至11時の間、自宅に於いて告別式執行。同日午後2時途中葬列を廃し青山墓地に埋葬致すべき候。なおこの広告を以て御通知に代え候間御了承願上候 大正6年1月28日 河村豊洲」

 


大正

大震災の死亡広告

  死者行方不明者14万人を出した関東大震災は、多くの死亡広告を出した。地震が起きた9月1日から2週間後の9月13日、『東京日日』に3件の死亡広告が出た。この広告は10月に入っても続き、遺体確認が難しいことを語っている。「三井銀行行員波木井誠一儀、9月1日の震災により行方不明に付き親族会は死亡の見込と認め候間この段辱知諸氏に謹告仕候 追て葬儀は来る18日午前10時(住所)茗荷谷学園に於いて挙行可仕候。大正12年10月16日」また住所録が火災で焼け、
  新聞広告で死亡通知をした人もいた。「…追て今回震火災にて本宅類焼と共に御芳名録焼失仕候辱知各位に御通知申し上げ候事不能に依て乍略儀本広告を以て御通知に代え申候候」


ロンドンで客死

  大正9年は世界的にスペイン感冒が流行しており、ロンドンにいた日本人の死を伝える広告も出た。「福間正吉儀ロンドン主張中の処、流行性感冒に罹り養生相叶わず、遂に去る2月20日同地において死去仕…葬儀は今回遺骨到着致し候に付来る5月8日…」(5月7日付)


  大正10年4月1日、丹那トンネル工事現場で落盤事故が発生。33人が生き埋めになり16名が死亡した。この事故にあった両親の名で次のお礼広告が6月22日付けの『東京日日』に出た。
  「長男竜一儀去る4月1日伊豆熱海トンネル工事作業中、該箇所崩落致しその為圧死仕候際、同所有志者始め役場員各位、警察署長各警察員並びに鉄道工事株式合資会社員各位の列席にて、最丁重なる葬祭を挙らせられ候奉深謝候 尚この惨状につき元田鉄道大臣、福沢桃介両氏は特に息竜一名儀にて御香資を被下この外地方同情者の義捐(ぎえん)金分与且鉄道工業株式合資会社等より弔意金送与に預り有難此の段乍略儀紙上を以て御厚礼申上候」

 

社葬広告

  「本社株主総会は取締役会長田坂初太郎氏逝去に付き、これを社葬とし創立以来の功労を謝し併せて追悼の意を表することに決議候間本月26日品川町海晏寺にて佛式を以て午後2時葬儀相営み候此段謹告仕候 大正11年11月24日 日本ペイント製造株式会社」

 

香奠は3円以下に

  「父花阿弥病気の処養生不相叶、11月10日午後11時卒去致候間此段謹告仕候也 追て来る11月12日午後1時より3時の間に…自宅に於いて告別式執行致し候、尚時節柄御供物等一切御辞退仕り候へ共、若し又御尊慮(おぼしめし)に叶わざる節は、亡き父の意志に基づき金参円以下の御香典に相願いたく候本広告を以て御通知に代え申し候 大正12年11月10日」

 

受験に失敗した息子の死

  小説家村井弦齋は、息子の死に多くの慰問を寄せられ、お礼に次の広告を出している。
  「御礼 4月5日三男賢三が一高の入学試験に志を得ずして非業の最後を遂げましたのは、私の不徳より起こった事で世間に申し訳がありません。しかるに江湖の諸君より懇篤なる御慰問を賜り、特に同じ年頃の御子達を持ち給う未知の方々より深甚の御同情を寄せられました事は、実に感謝に堪えません。賢三は体格も健康、性質も酒落で特に御愛顧を受けました成蹊学園の芳野幹一先生に郵送したお別れの手紙にも

  永らくお世話になりました。手を取り足を取って御指導くださった御恩の万分の一もお返しする事が出来なかった事をお許し下さい。僕は一寸これから旅行に出掛けようと思います。少し変わった所へ行こうかと考えております。お身体をお大切に。

と書いてある程ですから、最後に臨んで何の不安もなく、笑って死についたことと思われます。私は昨年春より腸の癌腫に罹り心に再起を期しませんでしたところ、不思議なる新発見の治療方によってこの程漸く全快しましたが、まだ病後の衰弱があるので外出も致さず、静養中で御同情を賜った諸君に一々御答礼申すことも叶いません、故略儀ながら紙上を以て御礼申し上げます。(『東京日日』大正14年4月14日)

 


昭和

防諜上の配慮から死因を伏せる

  敵の空襲による死亡報告は、被害場所の判定の資料となるため、それとわかる「奇禍により」「急逝(きゅうせい)等の文字ものの掲載は禁じられた(昭和20年2月)


  『朝日新聞』は昭和19年から黒枠広告を廃止して、故人の氏名の右に罫を付けるようになった。哲学者三木清の広告「三木清9月26日死去致しました告別式は10月3日午前10時より11時まで左記自宅に於いて行ないます。(住所)三木洋子」(『毎日』昭和20年10月2日付)


顔写真入り死亡広告

  昭和39年5月28日付『読売新聞』に、自民党の大野伴睦氏の葬儀広告に故人の顔写真が入った。これは評判になったものの、その後も一般化していない。


  昭和45年11月25日、三島由紀夫は自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入、演説後に割腹自殺した。この異常な事件から約2箇月後の翌年1月20日に死亡広告が出ている。「平岡公威(筆名三島由紀夫)儀去る11月25日死去致しました。生前に賜りました数々の御厚誼に謹んで御礼申し上げます。」

 

愛犬の死亡広告

  昭和55年9月『北海道新聞』にペットの死を告知した広告が出て、話題になった。
「お知らせ わが子同様に育ててまいりました、愛犬ネックが老衰のため9月18日満13歳をもって他界いたしました。当カメラ店内におきましては、留守番と看板の役目を兼ねて、十数年間毎日出勤しておりましたが、寄る年月には致し方なく、静かに天寿を全うしたことと思います。ここに生前中可愛がり、お世話いただきました皆様に厚くお礼を申し上げると共に、ご迷惑をおかけした皆様に心より深謝して愛犬ネックの冥福を祈る次第であります。昭和55年9月19日(住所)竹田又平」

 

大量死時代の死亡広告

  昭和60年8月12日、524人を乗せた日航のジャンボ機が墜落するという事故が起きた。この事故で日本航空はお詫び広告を14日付けで出している。

「お詫び
この度の弊社JA8119号機の事故により多くの方々の尊い人命を失う結果を招きましたことは、まことに申しわけなく謹んでお詫び申し上げます。亡くなられた方々に対し衷心よりご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様にはまことに申し上げるべき言葉もなく、ただただ、深くお詫びを申し上げる次第でございます。また、負傷されました方々とご家族の皆様に対しましても心からお詫び申し上げますとともに、一日も早くご平癒なさいますようお祈り申し上げます。更に関係ご当局ならびに地元の方々のひとかたならぬご協力に厚くお礼申し上げますとともに、多大なご迷惑をおかけいたしましたことにつき深くお詫び申し上げます。事故原因につきましては、目下関係ご当局により現地調査が行なわれておりますが、どのような理由にせよこのような事態を惹き起こしましたことは弊社としてまことに申しわけなく重ねてお詫び申し上げる次第でございます。

  昭和60年8月14日

日本航空株式会社
代表取締役社長高木養根」

  なおこの遭難に遭われた死亡広告の数は、日経が55件、次に朝日の43件という。その文面は
「弊社代表取締役社長(名前)儀8月12日の日航機事故により急逝(きゅうせい)いたしました。ここに生前のご厚誼を感謝し謹んでご通知申し上げます。追て葬儀は社葬をもって左記の通り執り行ないます。」
「弊社専務取締役(名前)儀8月12日日航機墜落事故に遭遇し殉職いたしました。この度の遭難に際し各位からご鄭重なお見舞いをいただき厚くお礼申し上げます。ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げす。」

 

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