1990.03
死と伝染病

  昨年暮れ、イギリスで猛威をふるったインフルエンザがアメリカでも大流行。日本にも流行の恐れがあるとしている。昨年イギリスでは、12月の第3週だけで約500人の死者が出た。アメリカでは昨年末で12万8千人だった患者が今年になって更に増え、ワクチン不足が深刻になってきている。アメリカでは入院患者の56%を45歳以上の患者が占めており、死につながる高齢者が感染しやすい傾向にある。
  伝染病の種類では、届け出をし隔離を必要とする法定伝染病としてコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳脊髄膜炎、ペスト、日本脳炎の11種がある。
  届け出だけが必要な伝染病は、インフルエンザ、狂犬病、炭疽(たんそ)、伝染性下痢症、百日咳、はしか、急性灰白髄炎、破傷風、マラリア、恙虫病、フィラリア病、黄熱、回帰熱の13種である。今回の「デスウオッチング」では、日本に大量の死をもたらした「伝染病」特にコレラとその影響をまとめてみた。


日本へのコレラ上陸 

  日本に最初にコレラが流行したのは文政5年(1822)で、この病気の手掛かりはなく、予防措置を取ることは全くできなかった。36年後の安政5年(1858)コレラが再び流行した。前年米艦ミシシッピー号がシナから日本に持ち込んだものである。江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて蔓延し、葬列の棺が昼夜絶えることなく、大通りや路地につらね、どこの寺院も列をなした。焼場では棺が所せましと並べられ、江戸だけでも死者10万〜26万人出たという。第3次のコレラ流行は1862年で、江戸だけで7万3千人の死者が出た。

 

「コレラ病予防心得」の公布

  明治10年、19年ぶりにコレラが日本に持ち込まれた。海外のコレラの流行状態から危機を察した内務省は「コレラ病予防心得」を8月に公布した。そのなかの埋葬及び火葬の取り決めは次のようである。
  第6条「避病院において死亡した者の埋葬地は(検疫)委員がこれを定め、むやみに埋葬してはならない。但しこの地方に墓地を有するものは、(検疫)委員の許可を得、消毒法を行なった後は埋葬してもよい。」
  東京でのコレラ発生に関して警視本署は次の布達を出した。「コレラ死者の葬儀は、なるべく人家の密集した道路を避けて棺を運搬し、棺の装飾品等はその寺院で焼却しなければならない。」
  翌月、コレラ死体の火葬についての布達が発せられる。「死者埋葬のさいに、寺院にこれを送り引導するのが習慣であるが、コレラ死者に限って、警察官吏が臨検した上で入棺させ、なるべく火葬にするため寺院に送る前に火葬場に回すように家族に説得する。」なお火葬は神道派の主張で明治6年に禁止されていたが、明治8年に火葬解禁の布告が出されている。

 

迷信との戦い

  明治にはいって最初のコレラが明治10年9月に横浜に発生した。清国のアモイに流行していたコレラが、米艦によって運ばれたものである。この年の流行で患者1万4千、死者8千人を出した。コレラの流行はそれからも絶えず繰り返して、明治時代のコレラによる死者の総数は37万人となった。これは日清、日露戦争の死者の数を上回るものである。横浜では、劇場、寄席など人が集まる場所の営業が禁じられた。またコレラよけに、不動様で護摩を焚いたり、赤紙に牛の字を三つ書いて門口に張りだしたり、八ツ手の葉を下げるなどのまじないが見られた。(明治10年9月22日の新聞より)また、コレラ避病院は人の生肝を取るとのデマが流れ、そのため医師が悪魔のように見做された。12月末に千葉県の医師沼野玄昌は、土地の漁師に囲まれ、竹槍で数ケ所の傷を負い、死骸は加茂川に投げ込まれるという事件が起きている。
  明治12年、南葛飾郡中平井村の若者がコレラの祈梼に、寺の経櫃を担ぎだし、「コレラを隣村に送れ、送れ」と囃しながら村内を練り歩いた。これを、隣村の者が聞き付け、同じように神社から獅子頭を担いで、コレラを隣村に送れと叫び歩いているうちに、両者が村の境で行き合い、喧嘩となる事件が起きている。(明治12年9月17日の新聞より)また愛知、三重県でもコレラよけのために、踊りと百万遍が大流行。伊勢では、コレラ踊りと会議と病院の悪口と石炭酸が当節の流行なりと言いはやし、辺鄙に至っては巡査が井戸に毒を入れて回ると、様々な風評が飛んでいた。
  明治13年までのコレラ患者総計は16万8千人、うち死亡者は10万人。予防として全国で使用した消毒代は100万円という。

 

病院事務手続き細目の決定

  明治13年8月、避病院等での伝染病患者の取扱い手続きについて細目が定められた。危篤から死亡までの規則は次のようである。
  第5条(危篤)入院患者が危篤に陥ったときは、速やかにその旨を親戚(知人)に報告しなければならない。
  第7条(死亡)死体は速やかに死体室に移し、消毒薬を注いだ白衣を覆い、親戚の来るのを待ってこれを示さなければならない。但し、24時間を経過するときはこれを棺に納める。
  第13条(死者の携帯品)死者の携帯品はさらに消毒法を行なって、これを親戚又は知人に引き渡す。
  明治14年「コレラ予防法協議手控」が設けられた。火葬場、埋葬場の取り決めは次のようである。
  一、火葬場はなるべく従来の火葬場を利用する。火葬場のない場合は山野などの土地を選んで設置する。
  一、コレラ死体の消毒後は、火葬場又は埋葬場での仏事を営むことは妨げない。但し、火葬後の遺骨はその家において葬儀を行なうことができる。
  一、火葬埋葬の際には巡査などを付き添わせ、衣服や棺覆いを外して密売することを防ぐ。
  明治15年コレラ流行に伴い、加持祈梼が盛んになったので、内務省はこれを制限す布達を出した。それは「信者から請求があったときは、まず薬剤内服の有無を証明させ、医師が診断し治療中のものに限り、差しつかえないものとする。」というものである。
  明治16年、ドイツの細菌学者コッホ(1843〜1910)がエジプトでコレラ菌を発見、また伝染病は特定の微生物が体内に侵入することによって発症するというヘレンの仮説を立証している。
  明治19年に駒込、本所、大久保の3伝染病院の患者数は合計5312名。避病院は極めて粗末なもので、一般の患者は避病院に行くことを嫌った。避病院に運ばれた患者のうち死亡者は3690名。死亡者が多いので棺桶の製造が間に合わず、死体は空の四斗樽に入れ数十個の樽を荷馬車に詰め込み、毎朝早く桐谷火葬場に運んだ。多いときにはその馬車が数台列をつくり、周囲に悪臭を放ったという。

 

コレラはやって家賃上がる

  横浜野毛山あたりは便利が悪いので、家賃は至って安かった。しかしコレラがはやり、野毛山は横浜でも乾燥しているところとして、にわかに空き家を探して引っ越す者が多くなった。そのため以前は50銭であった所も、1円50銭以上になったという。(明治19年8月)

 

沖縄県での惨状

  明治19年始めて沖縄にコレラ患者が発生し、那覇および首里地域で死者223人が出た。しかし沖縄の埋葬は特殊で、遺体を墳墓に埋葬した後、洗骨するのでコレラ患者であることを隠蔽するケースが多かった。

 

下水道の普及

  都市内での悲惨な衛生状態を改善するため、近代的な上下水道の整備が長与専齋らの識者によって叫ばれた。このなかで横浜市は、近代水道の工事をイギリス陸軍中佐に委ね、明治18年に着手し、2年後に完成させている。下水道はオランダ人技師の意見によって、明治17年東京神田鍛治町に建設、同じころ横浜外国人居留地にも煉瓦作りの下水道が敷設された。明治23年には水道条例が制定されて上水道の普及が図られたが、下水道法の制定は明治33年になってからである。

 

コッホ博士との対話

  日本の検疫が完全な形で実施されるようになったのは明治32年からである。この検疫制度を確立するに先立ち、日本政府は明治21年、衛生会委員の石黒を、プロシャのコレラ予防規則改正委員であるロベルト・コッホの下に派遣した。石黒とコッホの対話の記録からその一部を抜粋する。

石黒: コレラ菌は地中湿潤のところで何日位生存するのであるか。
コッホ: 湿潤の所では数か月生存する。そして発育に適した状況になると、たちまちその勢いが盛んになるのである。
石黒: 日本のコレラは歴史的にみても、実際上でも、土地固有の病気ではない。外国すなわち中国、インドより輸入するものであることは明らかである。故に日本政府は開港場に検疫所を設置し、停留所、避病院を設立し、検疫が実施できる体制にある。
コッホ: 海港検疫の方法は、要するに有病地を出港して5日以内、または船中にコレラ患者あってまだ5日間経過しないとき、入港前に必ず船客を上陸させ1ケ所に停留し、船内の疑わしい部分、衣服その他を消毒するなどである。
石黒: わが国で現在実施しているのは、貴下が今言われたことなのである。

この会見の4日後に、石黒は再びコッホを訪問し解答を得ている。

コッホ: 熟考した結果次のことを付け加えたい。もし私が日本の当局者であるならば、日本からコレラを根絶するために次のようにするであろう。まず長崎を主として下関、神戸、大阪、横浜、および東京の上下水改良を実施し、引き続いて下水改良工事に着手する。長崎を優先させるのは中国からの導火線をここで不燃性にするためである。長崎のような要地にはコレラ検査に十分な能力を持った医師例えば北里氏を常置し、輸入発生の初期に勢力を集中し、輸入発病のあったときは、ただちにこれを撲滅できる厳重な措置を行なう。

 

「伝染病予防規則」

  明治21年7月「伝染病予防取締規則」が公布された。第6章は死体の処置で、その中の一部を拾ってみる。

第45条(区分)死体の取り扱いは次の区分にしたがう。但し死体は沐浴させてはならない。
  1. (コレラ)コレラの場合は死体及び寝具に対して消毒を行ない、塩化第二水銀に浸したボロ、綿片などを肛門部に当て、棺底には松脂またはびん付け油を塗り、布団を敷き、続いて死体を納め、ボロその他の焼却すべき物品を入れて死体の動揺を防ぎ、棺蓋をしたうえで外部に消毒を行なう。

第46条(埋葬)コレラ、チフスの死体はなるべく火葬にさせるべきであるが、もし遺族が強く土葬を希望するときには、次の場合に許可をする。
  1. 埋葬穴は深さ3m以上
  2. 埋葬穴には塩化石灰を埋め、その厚さは棺の下部60センチ以上。周囲、上方は30センチ以上。
  3. 棺内の詰物には塩化石灰のみを用い、ボロその他は使用しない。

 

北里博士の香港行き

  明治27年、香港でペストが流行。5月までに死者271人を出す。北里博士はペスト調査のため、6月5日香港に出発。同27日、日本に「今回黒死病(ペスト)の病原発見せり」との電報を入れる。

 

「伝染病予防法」の公布

  明治30年3月、移動の禁止、埋火葬については次のようである。
  第9条(移動の禁止)伝染病患者および死体は、許可を経るのでなければ、他に移すことはできない。
  第11条(埋葬)伝染病患者の死体は十分と認める消毒方法をした後でなければ、埋葬できない。伝染病患者の死体は医師の検案により、許可を経て、24時間以内に埋葬ができる。
  第12条(火葬)伝染病患者の死体は火葬しなければならない。伝染病患者の死体を土葬したときは、3年以内は改葬できない。

 

ペスト撲滅に日本人街を焼き払う

  明治33年2月、ハワイでペスト流行に頭を痛めた政府は、カナカ・チャーチ付近に火を放って、一局部を焼棄しようとしたところ、風が強く吹き、火が支那人街、日本人街全部を焼き払った。焼き出された人々は、街頭に野宿する者も出たという。
  明治35年に内務省衛生局は、コレラ予防接種液を各県に配付した。その結果人口1万人当たりのコレラ感染率は、接種した者のうち109人であったのに対し、接種しない者の感染率は432人で、予防接種によって感染率が4分の1に低下した。

 

コレラで看護婦総辞職

  大正五年8月、神奈川県横須賀でコレラが流行、市立病院では伝染病棟に5人の看護婦を使役してきたが、非常に多忙をきたし、「不眠不休で体が続かない」という理由で看護婦は総辞職を願い出た。これを聞いた市当局はただちに10人を増員した。
  同じ年に千葉県で漁村でコレラ患者が出た。隣村では、コレラの侵入を防止するため、健康であるとの医師の診断書を持参しないコレラ村の住民は村に入らせないことに決め、村境で検問を行なった。このためコレラが発生した村では、村で唯一の医師の家に診断書を請求に押しかけた。このため、医師はあまりに煩雑となり、「右の者健康なりと診断」と書いた白紙診断書を村中に配付した。ところがこれが隣村に露見し、県に訴えたので、この医師は、医師法に違反したとして罰金に処せられた。

 

死者増え、火葬場が間に合わず

  大正7(1918)年春から流行していた「スペイン風邪」が秋になって猛威をふるい、感染者は肺炎や心臓病を併発して死亡者があいついだ。時あたかも第一次大戦のさなかで、地球上の半数がかかったといい、20〜40代の働き盛りに重症者が多かった。その死者は世界中で約2,500万人、内日本人の死者は38万人と言われる。
  この年、11月六日の大阪毎日の紙面に「各火葬場は満員。流行性感冒の猛襲により死亡率は急激に増加し、大阪市の流行の初期なりし10月25日より本月3日までに、天王寺、長柄、小林の3市営火葬場の能率は大人、小人を合して147個よりなく、死体預かり室は全部満員となる。応急処置として小林町の火葬場のみは、昼夜2回に分かちて火埋葬を行なうことになったけれども、肝心の葬儀夫18名中2名は感冒にかかりてバッタリ倒れてしまい、死亡率の増加によりて増員せねばならぬはずがかえって減員となり、市は血眼になって臨時の葬儀夫を探している。この仕事ばかりは誰でもという訳にはいかず閉口しているところ、天王寺、長柄の2ケ所も昼夜2回の仕事を行なうことになるかも知れないという。」

 

航空検疫時代の幕開け

  昭和2年には航空機時代に対応して「航空検疫規則」が制定された。昭和61年の検疫実績は、航空機50,153機、人員980万人であった。
  なお規則の死に関する条文の要旨は次のようである。
  第9条(措置) 2、現に伝染病患者または伝染病による死者のあるもの、または伝染病毒に汚染したものは離陸差し止めを命じ、患者に対する処置、死体又は物件の処分を指示し、航空機その他の消毒方法もしくは鼠族昆虫等の駆除を施行する。
  第15条(死体の処置)死体は火葬にし、その遺骨は引取人に引き渡さす。もし引取人のないときは[行旅病人および行旅死亡人取扱法]により処分する。(参照/第11〜15条、その費用は、死亡者の慰留の金銭又は有価証券があればそれを充当し、足らない場合には埋葬又は火葬を行なった地の都道府県の負担となる。)親族又は縁故者より死体引き渡しを申請したときは、病毒伝播の恐れがない限り許可できる。

 

戦場での戦い

  コレラは医療条件が整っていても恐ろしい病気であるが、戦場という悪条件のもとで発生した場合、応急の処置が施されず、24時間で致命的な結果を引き起こす。昭和17年11月、日本軍はタイ、ビルマ間鉄道建設を行なうために、連合軍捕虜5万5千、現地人労働者6〜9万人を投入し、うち4万7千人もの死者を出し、捕虜虐待で問題になった。その苦しい状況下でコレラが発生し、当時捕虜であったローリングスがその時のことを『クワイ河捕虜収容所』(社会思想社)の中で書いている。 「毎日まだ歩ける気力のある捕虜が選ばれ、夜のうちに死んだ者を運び出した。死臭が4方8方に立ちこめ、甘い香りで嘔き気を催した。描写することもできないほどの凄まじい情景だった。われわれは、すでに死者や死にかけているコレラ患者からの伝染、汚染を避けようなどという悠長な段階を遥かに通り越していた。コレラに感染したらそれで仕方がないと諦めるより方法がなかった。自分はまだ生きている。なぜ生きているのかと何度も不思議に思ったものである。」(142頁)
  「コレラ患者の死者は急速に増加し続けていったので、死体は死場所の小屋の中や、かたわらの溝の中から取り出されて近くのジャングルへ運搬され、そのしぼんだ遺体は、できるだけ早く火葬しなければならぬので大きな火が焚かれた。
  コレラ患者の死体を埋葬すれば、それはただ他の患者の数を増すだけであった。つまりその細菌が雨に洗い流され、地中を潜って低い地域に流されて河へ落ちていく結果となり、日をおいて下流でコレラの発生となるのである。」(144頁)

 

引揚船が運んだコレラ

  昭和20年9月26日、終戦と共に復員船の第1号が別府に入港した。引揚船コレラの発生は翌21年4月から到着した24隻のうち、19隻からコレラ患者が出た。当時は中国の広東とベトナムのハイフォンがコレラの流行地であったため、ここからの引揚者がコレラをもたらしたのである。5月4日の調査では患者1593人、保菌者1921人、船中死亡者169人であった。この年、全国のコレラによる死亡者は560名だった。しかしその後、昭和38年までコレラ船の入港はなかった。
  昭和52年、13年ぶりにコレラが発生した。7月までに有田市を中心に真性23人、うち一人が死亡した。有田市から東南アジアに旅行した者は69人いたが、感染源を確定することはできなかった。
  昭和53年10月、船橋市の66歳の女性がコレラと診断された。3週間後にさらに1人のコレラ患者が発見されたが、それぞれ発病の三日前に東京台東区の文化センターで行なわれた結婚披露宴に出席したということがわかった。調査の結果、日本料理の折詰に使われていた輸入冷凍ロブスターに、コレラ菌と生態が同じ菌が発見され、このロブスターがコレラ菌に汚染されていた可能性が強いと断定された。

 

検疫伝染病

  現在国際保険規則によって、検疫についての国際的な取り決めがなされている。日本では昭和26年に検疫法が制定され、現在検疫伝染病としてはコレラ、ペスト、痘そう、黄熱病を4疫病として定めている。
  WHOの調べではコレラの発生は世界で4万510人、ペストは483人、痘そうは昭和52年10月以来、発生がなく痘そう根絶宣言が行なわれた。黄熱は139人(うち死亡94人)である。

 

(資料:山本俊一『日本コレラ史』東京大学出版会、立川昭二『病気の社会史』NHK ブックス、「国民衛生の動向」厚生統計協会他)

 

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