1989.09
父の死

最初に迎える哀しみ

  はじめて家族の死に際に合うのは、祖母や祖父、あるいは父の死である。中でも子としては、父の死がもっとも衝撃が大きい初めての体験と言える。今回のデス・ウォチングでは、現代の9人の著名人の「父の死」に出会った体験を、その伝記などから抜粋してみた。


最期の遺言

●木下尚江(1869〜1937)社会主義者

  早稲田在学中に郷里から「父病気帰れ」との手紙を受ける。翌朝上野から汽車に乗り、故郷に帰る。病名は胃癌である。

  「父の日ごとに重なりゆく病の様が見える。余が帰宅後僅かに5日にして遂に最後の日が到来した。母は台所に食事の用意をなしたまうので、妹が病床の裾に座ってその小さき手に父の痛みを押さえていた。余は枕頭に手をついてその著しく変わり果てたる父の寝顔を見つめていたが、父はやがてポカリと大きく両眼を開きて、余と妹を呼びたもうた。 … 『汝等はこの世にただ一人の兄、一人の妹名のだから、行く末永く睦まじくせねばならぬぞ』とのたもうた。
  父はさらに余の顔を見つめ給いて『家のことは母にきけ。学校は卒業せよ。倹約を忘れるな。他に何も言い置くことはない』 … これが父の遺言であった。父はまた『わがめはどう変わったであろう』と問いたもうた。余は『否、何事もあらず』と確実に答えたが、実は死の影すでに父の顔を覆いて、その瞳のごときもよほど広がっていたのである。夕暮れ頃から父の容態ヒタヒタと変わって、近親故旧空しく病床を囲んで、時の至るを待つより他術がない。やがて遠寺の鐘が響いた。(中略)突然咽のたんが絡んで、息苦しげにがらがらがらと鳴る。咳一つの力で払いのけえるものと思えど詮なし。『父よ父よ』と余は相触れるばかりに顔すり寄せて叫んだ。『余りに声が高い』と母と伯父とに戒められたが、余は静かに叫ぶ力をもっていなかった。ああ人間の無力さ。
  父が喉頭のガラガラと鳴る音次第に静かになっていく。次第に低くなっていく。そして忽全く止んでしまった。父の呼吸の全く絶えてしまったのである。」

(『懺悔』1906年より)

 

突然の死

●田岡嶺雲(1870〜1912)明治時代の評論家

  「突然と母屋の方での異様の叫び声に目を覚ますと、うなされた後のように胸騒ぎがする。不吉の前兆、とっさに余はかく思い浮かべた。吾知らず起き直った際、アタフタとした足どりで人が来た。余は背筋に氷を注ぎこまれたようにゾッと身震いをした。
  余が母屋に来たときは、父はすでに昏睡状態に陥っていた。いびきのようにせまって高い呼吸に、わずかに「生」の名残をとどめている他には、もう一切の意識を失っていた。決断を示した引き締まった口、慈悲を宿した目の光、奮闘に黒ずんだややかどのある顔の色は、死の青白き薄影を浴びながら、昨日までものそれとたいした変わりはなかった。枕頭をめぐって座った祖母や伯母や母や兄や弟やが、父の耳元について、刻々に現世を遠ざかりゆく父を活かそうと努めた。腸を絞る悲痛な響きが陰にこもって、外面の白みゆくにつれて次第に薄るる灯の影が、見るにうすら寒かった。
  祖母や伯母が呼ぶ父の幼名も、母と子が呼ぶ父よの叫びも、消えゆく生命の意識に現世の記憶を呼び起こさしむる事はできなかった。医は病を癒すも死を救うものではない。医師も施す術を知らなかった。父はその朝の日の昇る前に死んだ。その日は春の彼岸の中日であった。
  死する者自らよりいえば、その死は悦喜に連続した楽しい夢であろう。その死にはなんの苦痛を感ずるいとまもなかった。しかし残った者にはこれほどあっけない死に方はない。一言の遺言もなく、一言の決別もない。祝いの宴が終えて、爛酔した身を厠へ起って卒倒したままに蘇らなかったのである。口にこそださね、父の胸に絶えざる憂いの種だった兄の身が定まった。それにあたかも良の病もやや軽快した。父の脳はこの喜憂の激変に強き衝動を感じて、その死を速めたのであろう。」(『数奇伝』1912年より)

 

覚悟の死

●鈴木貫太郎(1867〜1948)海軍大将。太平洋戦争中最後の首相

  「大正6年の6月1日、海軍中将に任ぜられた。ちょうどその頃私の一生の中で最も悲しむべきことですが、父が5月に東京に出てきて、顔色が悪いので、海軍の本多軍医局長に診ていただいた。そうしたら癌の疑いがある、それも相当に進んでいた。その時は関宿の町長をしていまして、自分でも癌だということを自覚しておりました。(中略)本多さんがいわれるのに、父に対しては、いい加減な気休めなどいわん方がいい、自分で癌ということを承知してその死期を待っていて悟っておられるから、ただ苦しみのないように気を付けて、慰めのようなことはいわん方が良いということだった。十数日を経過して次第に食べ物が入らなくなり、6月21日、それまでに親戚子供や孫あたりを集めて大勢で看護の中に、もっとも安らかになくなったのです。その臨終の際、父は、自分は群馬県で属官をしておった。この属官はいくら働いてもいくら良い考えをしてもみな上の人の功績になる。これは当然のことだが、せめてお前たちは奏任官だけにはしてやりたいと思っていた。お前も孝雄も将官になり、他の者もそれぞれ奏任官になり、その点については少しも不足はない。兄弟仲良く今までどおり暮らすようにといわれてから後はほとんど口を聞かなくなりました。それからしばらくして、明日の潮時は何時かなと聞いた。5時頃でしょうと答えたら、そうか5時頃か、ああ天なるかな命なるかな、というてから、からからと笑いましてそのまま眠ってしまい、明日の朝5時頃果たして変化が起こった。昔の人は潮時にいけなくなるんだと考えて、自分の死期を悟ったのであろうと思います。84歳でした。その後は注射でもっているばかりで段々脈も悪くなり、21日のお昼頃、まったく脈も絶えて誠に安らかになくなられました。
  その時に相当の年の熟練の看護婦が、こういう立派なご臨終は大悟徹底していられるからでしょう。色々の人の臨終に立ち会ったが、これで二度目であって、一度は禅宗の高僧がちょうど同じだと言った。」

(『鈴木貫太郎自伝』1939年より)

 

悲しい別れ

●木村 太(1889〜1950)

  「父の病症は悪化して、かかりつけの歯医者ぐらいでは手に負えなくなった。それで大学の診察を受けると、顎癌だということで、入院することになった。(中略)それから何日かして、父の大手術の日がいよいよ来たが、その予後は面白くなかった。そして4月の末の日病態悪化、危篤の電話がかかってきた。母はそう聞くと、たちまち泣濡れて、私を捕まえて、「ああ、どうしよう」と言った。父を失う悲しみの思いに混じって、後の身の不安が襲いかかっているのだと私にはわかった。店といっても、預かって経営しているだけで、子供の教育費から小遣いその他まで、父から手当ての形で支給されているにとどまっていて、この父が亡いあとの保証はまるっきりついていなかったのだから。私には、その母の心への察しがはっきりよくついた。が、でもこの場合はそんなことに関わっているときではない。とにかく、すぐに駆け付けなければならない … 臨終の父の床へ。という思いがしたのは、母も私も同じで、母も涙を拭い、私もわくわく動悸打つ胸を抑えて、すぐ病院へ一緒に行った。
  病室は、もう人でごった返すように一杯になっていた。左の顎を取り去って、咽喉に穴をあけて、そこからゴムの管で滋養を注入してもたせていた父の命も終わりに瀕して、顔には死色が漂っていた。やがて臨終。私達は代わり代わりに、その前に立って、命が去るのを見送り、別れを告げた。水にしたした脱脂綿を唇につけて、死に行く肉体の咽喉をうるおす末期の水を捧げるなどということは、この父の場合、不必要、不可能だった。ただ、顔をのぞき込んだだけ。それでも、顔の半分を厚く覆った包帯の影から現われた、片方だけの半面の方の顔しか見ることができなかった。
  最期に続いては、満室のむせび泣き、啜り泣き。その一時が終わると、遺骸運び出しの順序になった。」

(『魔の宴』1950年より)

 

死の前の吉兆

●吉川英治(1892〜1962)小説家

  「少し話は飛ぶが、父は大正7年の3月、浜町三丁目の新居で亡くなった。料亭”喜文”の裏門の間向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家の奥の間だった。亡くなる一週間程前、父は母にむかって『英のやつ、あんなで、いいのかなあ。…あれでやって行けるかしら』と、ぼくの前途を、しみじみ心配していたという。
潰瘍症状も、慢性なので、かかりつけの医師も何ら警告はしていなかった。唯2、3日前から、呼吸困難を告げていたので、大森の海岸付近にでも、閑静な家を見つけて、療養したら、と母も言うし、医師も同意なので、友人と共に、心当りの転地先を見つけに行った。そして、帰ってきたら、もう昏睡状態におちており、明日まで、どうかと、医師も首をかしげていた。
  --- その朝に限って、こんな事があった。父は茶好きで、おまけに、毎朝暗いうちに目を覚ます。同時に、湯加減よく、濃い煎茶の一ぷくが、すぐ出ないと機嫌が悪い。
  多年のその習慣で、今朝も母が未明に起きて、勝手口のガス七輪で、お湯を沸かしていると、病床の方から『おいく、おいく』と人恋しそうに、何度も呼ぶ。『はい、ただ今』と答えながら、とにかく先に、茶を入れて、いつものように、母が枕元へ持っていくと、父は起き直って『なあ、おいく。今朝ばかりは、お前の姿が観音様のように見えたよ。観音様が台所にいるかと思った …… 』と、手を合わしかけたので『いやですよ』と、母は笑いにまぎらしたが、そんなに言われたのは、夫婦となって、今朝が初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母はいった。
  それから少したって、『今朝は、むすびにしてくれ』というので、膳にのせてゆくと、手さぐりで床の上に畏まった。もう視覚もきかなかったものとみえる。それでも父は畏まって、むすびを食べた。病中一度もあぐらや、寝そべったままで、食事した例はない。そういう人であった。その晩の11時35分に息を引き取った。僕は父の顔が、色を引くのを見てから、真っ暗な2階に上がって、唯一人で突っ伏していた。そのうちに、知らせで寄ってきた知人の細君が、僕を揺り起こしに来た。びくッと、我に返ったように、僕が顔を上げたら、その細君は悲鳴に似た声を上げて、階段を駆け戻ってしまった。あとで聞いたら、ぼくの顔が狂気したように見えたのだそうである。自分では知らなかったが、そんな慟哭に沈んでいたらしい。」

(『忘れ残りの記』1955年より)

 

死者を慰めるノリト

●柳田国男(1875〜1962)民俗学者

  「父は先祖を祀る時も、自分の息子が死んだときも、自分一人で拝んで、自分の感覚に相応するノリトを作っていた。葬式を神式でするというので神葬祭といったものらしく、神道とはいわなかったように思う。ともかく日本の神道の弱点は、その場合に応じてそれに相当するノリトをあげることができなかった点である。中央の神主ですらそれが難しく平田盛胤などという人は名家に葬式があると必ず頼まれて行き、いい声で哀れに長いノリトを読んでいたが、これなどにもどうかと思う点が多かった。
  まだ葬式の時はそれでもいいが、何か特殊の問題が起こったときに困ってしまう。相手が知らないからそれをいいことにして、どうにかゴマ化しているが、祭の種類と目的とはいくつもあるのに、ノリトの数はそれほどない。一番極端な例が現われたのは、母が29年7月に死に、その9月に父自身が死んだときのことである。
  布佐の私どのの神主は、金毘羅さんの行者からあがってきた、もと船乗りかなにかしていた男で、何時でもノリトは大祓いの時のものしかやらない神主であった。みればそれもふり仮名つきのものであった。大祓いと言うものは「先ぶれ」の様なもので、ただ場所を清め、心を清める用意だけをするにすぎないものであるのに、人の最期をこのノリトで片付けられてはあとに残る者の良心がすまなかった。父の葬式の時は、私自身気持ちが非常に弱って、悲しみに何もわからなかったが、一年祭の忌あけには、もっと父の魂を引き止めておきたいし、とても大祓いのノリトでは気がすまなく大変に苦しんでしまった。どこかに古代作文の能力のある人はいないかと捜したが、千葉の田舎などにはそんな人がいるはずがない。土地では神主さん自身の家の葬式を仏教でするような時代であった。そこで私は自分で作ろうと思い立ち、まとめてみた。大変な事業だったが、父はさぞ私の心持ちを喜んでくれただろうと信じている。今はもう残っていないが、色々の祭のために三つほど書いたことを覚えている。」

(『故郷70年』1957年より)

 

恐れていた時

●広津和郎(1891〜1968)小説家

  「私は私の子供時分から恐れていた瞬間が近づきつつあるのを、今ははっきり覚悟しなければならなかった。この瞬間を想像すると、私は長い間どんなにおびえたことであろう。私は子供の時分から、父が好きであったが、青年時になった頃には、どんなことでも解かってくれる友達の様な感じもしていた。私は父にはどんなことでも打ち明けられた。女の失敗でも。父は何でも私を解かってくれ、私を慰めてくれた。…しかし子供の時から恐れていたその瞬間が近づいてきた今、私は時分の心を見つめてみると、何時かその瞬間に対する用意を少しづつでもしていたものか、思ったよりも落ち着いていられるのが不思議であった。意識するしないにかかわらず、こうした心構えというものは時が来ると自然にできているものなのであろうか。 … 子供時分からの父に対する思い出が、いろいろと浮かんで来るのを、私は静かに味わいながら、父の居眠りを見守っていた。(中略)
  夜中に父が私を呼ぶので、枕元に行くと、
『俺は治るよ。今一休和尚の言った言葉を考えていたのだが、あの位はっきり考えられたのだから、俺の頭は確かにはっきりしている。これなら死にっこない。一休が …… 何だっけかな。 …… 一休が、今はっきりしていたのに …… 』父はまだるっこしさに、少し眉をひそめて考え出そうという顔をしたが、それきり眠ってしまった。
  2度目に私が呼ばれたのは、もう明け方であった。(中略)
母は台所に行って、ワサビ下ろしでボケの実をおろし始めた。どうせ気休めにしかならないのだから、余り濃い汁を飲ませるのは痛ましいと思ったので、私は立っていって、水を割るようにと母に言った。母はそのとおりにした。それを父に飲ませると、父は目をむいて言った。『薄いじゃないか。何故カスを取ってしまったんだ。 …… 江見はカスごと飲めと言ったぞ。もう一度作り直してきてくれ』母は黙って台所に立っていった。『薄めることがあるものか。何故濃いまま飲ませないのだ。 …… わからんな。わからんな』と父は舌打ちするように言った。
  ただし母が再び作り直して来た時には、父はまた眠ってしまっていた。そしてそれきりもう目を覚まさなかった。『わからんな。わからんな』が最後の言葉となった。翌日の午後攀じ4時8分 --- 昭和3年10月15日 --- 父は静かに行きを引き取った。」

(『年月のあしおと』1961年より)

 

人生の転機

●榎本健一(1904〜1980)喜劇役者

  「勘当が許され、伯母のところで暴れたことも内緒にしてもらって、家に帰っていたが、まもなく、父親は病状が悪化して北里病院に入院した。入院中の父親を見舞に行ったとき、あの気の強い父親が、さすがにやせ衰えて元気がまるでなく、ものをいうのも大儀そうであった。そのうち、『健一、俺の命を半分とったのはお前だぞ』とポツンといった。別に息子が憎いという言い方ではなくて、長い間の感慨がこの一言に出たという感じであった。が、僕にとっては体中の血が一時に逆流するように思われた。この時ほど父親に申し訳内と思った事はなかった。
  大正11年5月16日、病院からの急報の電話が入った。父親が危篤だというのである。僕は夢中で妹や家の者たちに『すぐあとから来い』と自転車に飛び乗って病院に駆け付けた。すでに父親は口もきけず目を閉じている。明らかに昏睡状態である。僕は思わず父親にすがって詫びた。
  『お父さん、今まで心配ばかりかけてすみませんでした。これから心を入れかえて、きっと真面目になります。一生懸命働いて、立派になりますからどうか今までのことは許してください』。夢中になって父親に言った。すると、もう意識のない筈の父親の目からスーッと涙が流れてきた。それを脇にいた看護婦さんがガーゼで拭いてくれた。そして父親は死んだ。最期に僕のいうことがわかってくれたに違いない。僕は、もうたまらなくなって泣きながら外に飛び出して、自転車に飛び乗り涙でくしゃくしゃの顔のまま親戚に、父親の死んだことを知らせて回った。父親は42歳だった。これから僕の気持ちはガラッと変わった。」

(『喜劇こそわが命』1967年より)

 

看護婦としての父の死

●亀山美知子 (1945〜)京都市立看護短大客員

  「昼前、病院に出ていた私は、案の定、父が危篤になったためすぐ帰るようにという姉からの伝言を受けた。学生には実習中事故がないようにと注意し、急いで休暇の手続きをとった。
  自宅を出かける用意をしながら、私はとまどった。どれくらいの期間になるか皆目見当もつかない。それに何気なく、黒いパンタロンを取り出しかけて私は躊躇した。喪服の準備をするようではばかられたのである。
  午前6時40分、父がかかりつけていた成人病センターに着いた。どうしてこんなに早く着いたのか、自分でも信じられないほどだった。
  父は、母と姉、姉の夫に囲まれて眠っていた。呼吸も脈も落ち着いていたが、意識は完全に無くなっていた。2時間後、中脳が圧迫されたことを示す瞳孔の変化をを見つけた私は恐ろしくなった。それは異様なまなざしだったからだった。
  4月23日午前零時10分。一瞬、私は病室を出た。そのとき父の心臓が停止した。医師と看護婦が父をのぞき込むように立っている。モニターの波は一つの線になってしまった。ついに、父の心臓は、力尽きたのだった。
  全てが、終わった。死は一瞬の出来事だった。意識のない父にとっては、もっと呆気ないものだったろう。
私は何気なく、父の足元の壁を見上げた。そこには誰かが貼った古びた風景写真がある。なぜか、そのとき、ニコニコと笑っている男の子の姿が見えた気がした。あまりにも健やかな笑顔だった。私には、それが父が生まれ変わった姿のように思えた。アジアには、古くから「生まれ変わり」の思想がある。小さなころから聞かされてきたその類の多くの話は私の中にごく自然にその思想を根付かせることになった。父とともに死を闘ってきた私は、その幻影の出現で、ふっと開放感を味わうことになった。

(『死にゆく人々に教えられて』1988年人文書院より)

 

父の死について

●高野悦子(1929〜)岩波ホール総支配人

  「『お前の周りにはお年寄りが多いから、少しは人と別れる練習をしておきなさい』と、50歳になってもまだ肉親の死に目にあったことのない私に、父はそういった。(中略)そんな説教をした父が、腹部大動脈瘤の破裂でそれからまもなく倒れた。そして、57日間の闘病生活のあと死んだ。
  いま思えばおかしなことである。82歳の父をもちながら、私は一度も父の死について考えたことがなかった。必ずいつかは私にも訪れる親との別れを、私はなんの心の準備もないまま、呆然と迎えてしまったのである。(中略)私は父の骨を、父がいちばん活躍したハルビンの地を流れる松花江にながした。

(『死を語る死を想う』朝日新聞社より)

 

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