1988.06
人間最後の言葉

  「人の一生のしあわせ、不しあわせは、棺の蓋が閉まるまで分からない」と申します。またほかの場合はいざ知らず、死と対する最期のときは、人は本当のことを語るといいます。今回の特集は、日本と外国の有名人の最期の言葉を集めてみました。さまざまの分野で頂点を究めた人達ばかりです。いずれにしても私達が知っているのは、
  彼らが活躍したときのことで、死を迎えるときではありません。日頃は華やかな部分
だけがクロ−ズアップされる彼らも、最期にはそれぞれの死を死んでいくのです。


日本人の言葉

◆一休(1394〜1481)

室町時代の臨済宗の僧。当時の禅宗界をしんらつに風刺して、人間的な禅風を目指した。文明13年11月、寒さや高熱がおそう「ぎやく」にかかり、21日朝に没した。死ぬにあたって彼は「死にとうない」といって、座ったまま眠るように死んだという。87歳。

◆芭蕉(1644〜1694)

江戸時代の俳人。『奥の細道』などの作品を残し、俳句を芸術にまで高めた。元禄7年秋、大阪に来ていた彼は1日に20回にも及ぶ下痢に悩まされた。赤痢であったといわれる。9月9日「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という発句を弟子に書き取らせる。10日に「一生旅で過ごし、かねては草を敷き土を枕にして死ぬ自分と覚悟していたのに、こんな立派なしとねの上で、大勢の人々に付き添われて死ぬとは冥加に尽きる」と涙を浮かべて語る。11日には、下痢するものがなくなるくらいにかれる。障子に蝿がとまっているのを弟子が取ろうとしているのを見て「何事も上手下手はあるものだな」といい、それから眠りに入り、午後4時頃息を引き取った。50歳。

◆大石内蔵助(1659〜1702)

播磨赤穂藩家老、のち赤穂義士の首領。討入後、翌元禄16年2月4日、切腹を命じられる。切腹の座に呼び出されたとき、背後から義士の一人が「追っつけおあとから」と声を掛けると、「お先に」と笑って静かに出ていった。44歳。

◆良寛(1758〜1831)

江戸後期の曹洞宗の僧。諸国行脚の後、郷里越後に住んだ。文政13年7月、激しい下痢を患う。症状は夏から秋にかけ一進一退した。そのときの反古のなかに「ぬばたまの、夜はすがらにくそまり明かし、あからひく、昼はかわやに、走りあえなく」の歌がある。大晦日、介抱していた貞心尼は「生き死にの境離れて住む身にも、通らぬ別れのあるぞかなしき」と口ずさむと、良寛は「裏を見せ表を見せて散るもみじ」とつぶやいた。明けて1月6日夕、眠るが如く去った。73歳。

◆葛飾北斎(1760〜1849)

江戸時代後期の浮世絵師。生涯に93回引越しをし、酒も煙草ものまずただひたすら描き続けた。嘉永2年4月風邪をひき、枕頭には娘や弟子たちが集まった。ここで彼は「ひと魂でゆく気散しや夏の原」と辞世をよみ、「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、本当の絵師になられるのだが」とつぶやいて息を引き取った。89歳であった。

◆二宮尊徳(1787〜1856)

江戸後期の農政家。通称金次郎。安政3年10月20日、今市の居宅で多くの崇拝者に囲まれ、「葬るに分を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本を植えれば足る」といって息を引き取った。69歳。

◆高杉晋作(1839〜1867)

長州藩士。度応2年小倉城攻撃を指揮していたが、以前からの肺患が悪化する。翌慶応3年4月病床で、「面白きこともなき世を面白く」と書いた。あと望東尼が「すみなすものは心なりけり」とまとめると「面白いのう」と笑って目を閉じた。28歳。

◆坂本竜馬(1835〜1867)

土佐藩の志士。度応3年11月15日の夜、竜馬は京都の醤油屋、近江屋の3階で中岡慎太郎と話し合っていた。8時頃3人の男が訪れ、竜馬の従者に切りつけ、そのあと竜馬と中岡の両名を切った。刺客が帰った後、竜馬は息を吹き返し、残念、残念といいながら、隣室まで這出したが「おれは脳をやられたからもう駄目だ」と微かな声でいってこと切れた。32歳。

◆山岡鉄舟(1836〜1888)

幕末の剣客。江戸城無血開城に貢献。明治20年左脇腹にしこりができ、胃ガンと診断された。翌年7月18日、医者の診断では胃穿孔のため急性腹膜炎を起こしていることが判明。19日の払暁に「腹痛や苦しきなかに明けがらす」と辞世の句を詠む。そして手にうちわを握り、座禅を組んだまま大往生をとげた。52歳。

◆樋口一葉(1872〜1896)

明治中期の小説家。「たけくらべ」「にごりえ」を発表。明治29年11月3日、教師の馬場が一葉を見舞い「冬休みにまた上京しますから、そのときまた参りましょう」といった、すると一葉は苦しそうな声で「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」と切れ切れに言った。それから20日後、彼女は死んだ。24歳であった。

◆勝海舟(1823〜1899)

幕末・維新期に幕臣として、また新政府高官として活躍。明治32年1月19日午後5時頃、風呂から上がると坐り込んで「胸が苦しいからブランデーをもって来
い」と家人に命じる。それをグラスに入れ「今度はどうもいけないかもしれんぞ」といって一口飲んだとたん、倒れて意識を失った。脳溢血であった。彼が息をひきとったのは2日後の午後5時。最後の言葉は「コレデオシマイ」である。76歳。


(20世紀)

◆夏目漱石(1867〜1916)

明治末期から大正初めの小説家。『坊っちやん』『こころ』。漱石は晩年、糖尿病と神経痛と皮膚病とノイローゼと、持病の胃潰瘍に悩まされていた。大正5年11月21日連載小説の『明暗』188回を書き上げ、翌22日女中に書斎に倒れているところを発見される。12月9日、漱石はひどく苦しみ始め、自分の胸をあけて「早くここに水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから」というようなことを言い、看護婦が水を含んで吹きかけると「ありがとう」といい、そのあと意識を失ってしまった。49歳。

◆野口英世(1876〜1928)

梅毒の病原体であるスピロヘータの純粋培養に成功したほか、数々の病原体の研究に従事した。1924年アフリカ西南部で黄熱病が発生したため、1927年秋、彼は調査のため現地のアクラに向かった。翌年の元旦より黄熱病の症状を訴えるようになる。5月10日頃から再び黄熱病の症状を訴え、13日見舞いに来た医師に、一度黄熱病にかかって免疫になったのになぜ再発したのか「どうも僕には分からない」と語った。20日には意識不明となり、21日正午頃、息を引きとった。52歳。

◆岸田劉生(1891〜1929)

大正時代の洋画家。娘をモデルとした「麗子像」は有名。昭和4年12月14日夜、劉生は徳山の料亭で銀塀風に舞子を描いた。そのあと筆を持ったまま脇息にもたれ「気持が悪い」といった。発病後2日して、医師から慢性腎臓炎による視力障害と診断された。18日、彼は「暗い」「目が見えない」と叫び、以後頻に「バカヤロ−」を繰り返した。12月20日。吐血して死亡。38歳。

◆南方熊楠(1867〜1941)

生物学者、民俗学者。昭和16年8月、南紀の暴風のなか、裸で菌類のかたずけをしてから発熱。12月28日、病状が重くなったので、家人が医者を呼ばうとすると「医者はいらん」と断わり、「天井に美しいおうちの花が咲いている。医者が来るとその花が消えてしまうから呼ばないでくれ。縁の下に白い小鳥が死んでるから、朝になったら葬ってやってくれ」と不可解なことをつぶやいた。夜になってから「私はこれからぐっすり眠るから、羽織を頭からかけてくれ。ではお前達も休んでくれ」といった。そして翌午前6時30分、死亡。74歳。

◆北原白秋(1885〜1942)

詩人、歌人。詩集『邪宗門』がある。白秋は昭和12年、糖尿病と腎臓病による眼底出血で、原稿が読めなくなる。昭和16年の末、歩行困難、呼吸困難になり、翌年2月入院。4月より自宅療養することとなる。11月2日の午後4時頃、白秋は「なに、負けるものか、負けないぞ」とうめいた。長男が窓を開くと「ああ蘇った。隆太郎、今日は何日か。11月2日か。新生だ、新生だ。この日をお前達よく覚えておおき。私の輝かしい記念日だ。新しい出発だ。窓をもう少しお開け。ああ、素晴らしい」しかし最期の発作では「一度安心したせいか、もう打ち勝つ気力もない。駄目だ、駄目だよ」とあえぐようにつぶやいた。57歳。

◆島崎藤村(1872〜1942)

詩人、小説家。『夜明け前』が有名。昭和18年8月21日、中央公論に連載の『東方の門』の第3回分を書き上げた。その直後に脳溢血を起し、22日午前零時35分死去した。彼の最後の言葉は「涼しい風が吹いてくる」であった。71歳。

◆小津安二郎(19012〜1962)

映画監督。『晩春』『東京物語』が有名。昭和38年4月11日、ガンセンターに入院。手術中は、「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていたそうである。一度退院した彼は、10月12日再入院。「何も悪いことをした覚えはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう」と言った(10月19日)。「右足がどっかに行っちゃったのかね。ベッドの下に落っこちているんしやないかね」12月12日死亡。それは還暦の誕生日であった。

◆高見順(1907〜1965)

小説家。詩集『死の淵より』が有名。昭和38年10月3日、食道ガンの診断を受ける。第1回の手術は10月9日。2回目の手術は翌年の7月。『死の淵より』は8月に書かれた。昭和40年8月、医者から「もうエンジンのないグライダーが風に舞っているようなものです」と宣告される。8月16日、彼が設立のために奔走した「近代文学館」の起工式のメッセージを口述した。「はじめも終りもありがとうございました、としかいえません。一世一代の大風呂致を広けっ放しで病に倒れましたが、どうか末長く頼みます」翌17日午後5時32分、導師の『喝』の声とともに死亡。58歳。

◆エノケン(1904〜1970)

喜劇俳優。本名榎本健一。昭和44年12月全身に黄疽症状が現われ、翌年の元旦に入院。病名は肝硬変であった。3日に「ドラが鳴るんだよ。船が来たよ、ほらほら」といい、妻のよしえが鷲き「お父さん、船なんか一人で乗っちやだめですよ」というと「うるせいや、早く乗れ」と答えたという。5日。よしえが「病院を出たら温泉にでも行きましょうか」というと「ありがとう」といった。これが最後の言葉である。66歳。

◆大宅壮一(1900〜1970)

政治・社会時評家。昭和45年10月26日、山中湖の山荘で息苦しさを訴え、急遽帰京して入院。11月18日、昏睡状態から覚めた彼は「ああ、腹が減った。何か食うものをよこせ」とどなった。11月22日午前3時4分、一度心臓が停止したが、3時43分に永遠に止まった。死ぬ直前に妻に「おい、だっこ」といったという。70歳。

◆徳川夢声(1894〜1971)

話術家。昭和46年7月22日、腎孟炎で入院。7月末、彼は妻に爪を切ってもらうと、その手を目の先にもっていってじっと眺めた。妻は病人が自分の手を見詰めるようになると、まもなく死ぬという話を思い出して「疲れますよ」といってその手を下ろした。3日後の8月1日午後零時20分、妻に「おい、いい夫婦だったなあ」といって死亡。77歳。

◆船橋聖一(1904〜1976)

風俗小説家。昭和50年の秋、文化功労賞を受けることになったが、弟たちがお祝いの品を届けなかったことから癇癪を起こし「弟妹たち合わせて100万円もって来い」と怒号した。そのあと彼は心臓喘息の発作を起こした。翌年1月13日、再び発作を起こし意識を失う。午後零時58分急性心筋梗塞により死亡。72歳。

◆梅原竜三郎(1888〜1986)

洋画家。昭和60年12月25日、風邪でたんを詰まらせ呼吸困難に陥り、入院。入院前に医者に「アトリエに、描きかけの絵がある。見てきたまえ」といった。もちろんそんなものはないのである。翌年1月14日から昏睡状態に陥り、肺炎を起こし、15日、「胸が痛みますか」という医者の問に「心配ない、心配ない」と答えたのが最後の言葉となった。98歳。


外国人の言葉

◆バッハ(1685〜1750)

ドイツの作曲家。 1750年の7月、その夏の熱さが彼を苦痛と衰弱におとしいれた。彼は死の床から起き上がり「クリストフ、紙を持っておいで、いま頭のなかに音楽が鳴っている。それを書き取っておくれ。それがこの世で私が作る最後の音楽だ」といって、また眠り込んだ。夜明けにバッハは妻を呼び「私に音楽を聞かせておくれ。もはやその時だから、お別れほ死の歌を歌っておくれ」と頼んだ。家族たちは讃美歌を歌うと、彼の顔は大変柔和になった。7月28日夜10時15分死亡。65歳。

◆ヴォルテール(1694〜1778)

フランスの哲学者。小説家。1777年、17年ぶりにパリに帰った彼は、15日目に血を吐き、重体におち入った。翌年5月30日、病床で司祭が「あなたはまもなくご臨終です。死の前にイエス・キリストの神性を認める気はありませんか?」という問にたいし「イエス・キリスト?」とつぶやいたあと、「静かに往生させてもらいたい」といったのが最後の言葉であった。84歳。

◆アダム・スミス(1723〜1790)

イギリスの経済学者。『国富論』の著者。61歳のときに母をなくした彼は、それ以来健康が衰えた。晩年の1790年7月中旬、見舞いに来た友人に、自分のノート16冊を焼いてもらい、安心したようになった。そして「私は皆さんと一緒にいたいのですが、お別れしてあの世に行かなければなりません」といって寝室に去り、17日に死んだ。67歳。

◆J・ワシントン(1732〜1799)

アメリカの初代大統領。晩年の12月12日、習慣にしていた乗馬の散策中にみぞれにあい、風邪をひいた。14日午後10時頃秘書に「葬式はていねいに頼む。しかし私が死んでも、3日間は墓に入れないでくれ。いいかね?」と言残し、静かに絶命した。67歳。

◆カント(1724〜1804)

ドイツの哲学者。カントは一生独身で過ごし、毎日同じ町の同じ場所を、同時刻に散歩するという生活を続けた。1803年12月、彼は自分の名前も書けないほどぼけてきていた。翌年2月11日の夜、彼は友人からスプーンで、葡萄酒と水を甘く割った飲み物を差し出され、かろうじて飲むことができた。このとき「よろしい」といい、これが最期の言葉となった。翌朝彼は息を引き取った。80歳。

◆ナポレオン(1769〜1821)

フランスの皇帝。1815年6月、ワーテルローの戦いに破れたナポレオンは、セント・へレナに流刑の身となった。ここで彼は数年の内に、食欲不振と足のむくみを訴えるようになった。1821年3月から、ろくな手当を受けることなく、病床についたままとなった。4月に「私はイギリスの暗殺者に殺されるのだ。私の骨はセーヌ河のほとりに埋めてくれ」と遺言した。5月5日午後5時「神よ、フランス国民、私の息子、軍隊の先頭」と、とぎれとぎれにつぶやきながら死んだ。そのとき左目から涙がこぼれていたという。イギリスの薬学者がナポレオンの遺髪を検査した結果、死亡前約4か月にわたって砒素系の毒物を摂取していたことが判明した。52歳。

◆べー卜ーヴェン(1770〜1827)

ドイツの音楽家。彼は1815年、45歳の時に、完全に聴覚を失った。1826年秋頃から腹水がたまり始め、12月20日に最初の腹水穿刺が行なわれた。翌3月23日、医者は彼に死が近付いていることを告げた。彼の顔は変り、やがて周囲の友人に言った。「友よ拍手を。喜劇は終った。」そのあと彼はつぶやいた。「残念だ、全く。遅すぎたよ。」
3月26日の午後、ウィーンの街に雷雨が襲った。彼は雷にむかって右手を上げたが、やがて倒れた。死因はアルコール嗜好による肝硬変であるという。57歳。

◆ゲーテ(1749〜1832)

ドイツの小説家、劇作家。1832年3月16日、ゲーテは風邪をひき、床についた。22日午後11時30分、椅子の隅に身を寄せかけたままで亡くなった。「窓を開けてくれ。明りがもっと入るように」と言ったのが最後の言葉である。「もっと明りを」という印象的な言葉はこれに基づいている。83歳。

◆ドストエフスキー(1821〜1881)

ロシアの小説家。『罪と罰』で有名。1881年1月25日夜、執筆中にペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。2月9日朝、彼は妻に言った。「アーニア、僕はもう3時間もずっと考えていたんだが、今日、僕は死ぬよ」11時頃目覚め彼は言った。「君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しかろう」。夜8時30分、死亡。葬儀には約3万の人々が、修道院の教会堂まで棺のあとに付き従ったという。60歳。

◆ワーグナー(1813〜1883)

ドイツの作曲家。1883年彼は前年からベニスのホテルに滞在していた。2月13日午後、彼は机の前で苦しているのを召使が見付けた。「医者と妻を」と彼は言った。妻のコジマが駈けつけ、薬を飲ませたが利き目はなかった。召使が衣服を脱がせかかると、ワーグナーは「私の時計を」といって、それを最後に妻の腕のなかでこと切れた。70歳。

◆ユゴー(1802〜1885)

フランスの小説家。『レミゼラブル』が有名。晩年の5月18日、彼は倒れ、ベッドの中で言った。「君、死ぬのはつらいね」「死んだりなさるものですか」「いや死ぬね」しばらくして「ここで夜と昼が戦っている」とつぶやいた。22日の朝から臨終の苦しみが始まり、午後1時37分に息を引きとった。最後の言葉は「黒い光が見える」だった。このときすざましい嵐がパリを襲い、雷が鳴った。83歳。

◆ゴッホ(1853〜1890)

オランダ人の画家。1890年5月、パリ北方の小さな町オーヴエルに行き、絵を描き始めた。7月27日の夕刻、麦畑のなかで自分の胸をピストルで撃った。弾は心臓を外れたが、彼は重症のまま歩いて宿屋に帰った。明くる日、急報を受けて駈けつけた弟のテオに、ゴッホは「泣かないでくれ。僕はみんなが幸せになるようにと思って、こんなことをしたんだ」と言った。28日の夜「僕はこんなふうに死んでいきたいと思ってたんだ」といった。29日午前1時半、息を引きとった。生前に売れた絵は、1枚だけであった。37歳。

◆イプセン(1828〜1906)

ノルウエ−の戯曲家。『人形の家』で有名。1900年72歳のとき卒中に襲われ右半身が不随となった。1906年5月頃から、衰弱が激しくなり、月半ばからこん睡状態が続くようになった。22日の昼頃、看護婦が家人に少し良くなられましたというと、彼は「とんでもない」と言った。翌日の午前2時半、死亡。78歳。

◆マーク・トウェーン(1835〜1910)

アメリカの小説家。『トム・ソーヤの冒険』で有名。死ぬ1年前に彼は「私は1835年ハレー彗星とともにこの夜に生れた。来年はまた彗星が近づく。私は彗星とともに、この世を去りたい」と言った。翌年、ハレー彗星が現われた翌日の4月21日、彼は突如狭心症の発作を起こし、絶命した。最後の言葉は「じゃあまた。いずれあの世で会えるんだから」と言ったという。75歳。

◆ルノワール(1841〜1919)

フランスの印象派の画家。ルノワールは後半生リューマチに苦しみつつ、最後の20年は手に鉛筆を縛りつけてまでして、描き続けた。1919年12月2日、普段と同じように静物画を描き終え、午後7時頃眠りにおちた。8時頃、いきなり彼は「パレットをよこしなさい。この2羽の山しぎは」といった。彼は幻の鳥を見ているのである。「山しぎの位置を変えてくれ。早く、絵具を、パレットをよこしてくれ」彼は、午前2時静かに息を引き取った。78歳。

◆コナン・ドイル(1859〜1920)

名探偵「シャーロック・ホームズ」の作者。彼は第一次大戦に出征した息子を失ったこともあって、晩年神霊学に凝り始めた。1929年秋、彼は倒れ、療養の結果、翌年春に一時回復したが、夏から再び悪化した。30年7月7日朝7時半、妻に「この地上で最も優秀な看護婦へ、と刻んだ勲章をお前のために作るべきだと思う」と言った。8時半、死後世界を信じていた彼は安らかに死んでいった。71歳。

◆キュリー夫人(1867〜1934)

フランスの物理学者。死ぬ年のはじめからラジウムの放射能のため、白血病の症状が現われていた。7月3日午後「これはラジウムで作ったのですか。」などのうわごとを言い、注射に来た医師に「いやです、構わないでください」とさけんだあと、こん睡におちいった。それから16時間後、死亡。67歳。

◆バーナード・ショウ(1856〜1950)

イギリスの戯曲家。病床に付いたのは94歳で、看護婦に「お前さんは私の命をまるで、古い骨董品のようにもたせようとしているが、私はもうだめだ。おしまいだよ。私は死ぬんだ」といい残して死んだ。94歳。

◆チャーチル(1874〜1965)

イギリスの政治家。最後の日に近い誕生日に「私は随分沢山のことをやって来たが、結局何も達成できなかった」と娘に語った。最後の言葉は「何もかもウンザリしちゃったよ」である。91歳。

 

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