1989.6
古代ローマ

古代ローマ人は、葬儀に大変力を入れた民族である。その理由は、埋葬されなかった死者の魂は三途の河を渡ることが出来ず、少なくとも百年以上もさまよい続けるからという。死者が出るとその親族は大声で死者の名前を呼び、あるいは死者の口に接吻をして、最後の息を吸い取るという。

死者の遺体を洗い、香を塗ったあと、白の衣を着せ足を外に向けて玄関の椅子に安置する。それから死者の口には貨幣を含ませる。扉にはイトスギを置き、魔除に使うという。ローマ人はギリシヤ人と同じように火葬が普通だったが、後になって土葬が一般化してきた。

葬儀には個人葬と公の葬儀があり、公の場合には公費で葬儀が営まれた。公葬の場合には普通、7、8日安置し、子供たちが遺体に蝿がたからないように監視する。

葬儀の日に家族の者が遺体を運ぶ。ほとんどの葬儀は夜間に松明をつけて行われたが、公の葬儀はのちに昼間行われるようになった。

葬送行進はまずはじめにさまざまな楽器(笛)音楽家が行き、その後に泣き女が続く。横笛は10人迄とされた。その次には道化が続き、中には死者の生前の言葉や仕草を真似る役がいた。その後に死者が死んで自由になった奴隷が続いた。遺体の後には死者の友人が続き、近親者は時に衣装を裂き、灰を頭に被って悲しみをあらわした。著名な人物の葬儀では、遺体は市の広間まで運ばれ、息子か親族によって死者に哀悼の辞が捧げられた。

古代ローマでは街のなかに遺体を埋めたり焼いたりすることは禁じられていた。木星の神を祭る祭司は死者に触ったり、墓場に行くことは許されていなかった。従ってユダヤ人のなかの高位の神官か僧院長が行った。埋葬する場所には公共の用地と個人の場所があった。個人は主に街の門からはなれた道路のそばに埋められた。

火葬用の薪は祭壇の形につくられ、4つの同じ長さを持つ燃えやすい木が選ばれた。遺体は台に載せられたまま焼かれた。死者の目は開けられ、親族は目に涙を浮かべ遺体に接吻し、燃え盛る松明で火をつけた。葬儀後9日後には、乾燥した灰を大理石の壷に入れ、はだしでそれを運んだ。死者のための祭は墓場で行われた。死者の妻の服喪期間は10カ月で、死者の記念祭は2月13日〜21日に行われた。

ローマ人は、生きているうちに墓をつくった。もしそれが出来なかった場合には、遺言で残された者に托したのである。彼らは死後の魂は宇宙の神聖な要素となると考えていた。魂は火ととても親しい関係をもち、正しい死後の魂は、神聖との関係を失わず、人界の上の領域で自由に過ごすという。また悪いことをした魂は、地獄に落されると考えられた。

 

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