1993.01
蘇生の話

蘇生とは心臓と肺を再び作動させて、死んだと思った生命を回復させることである。医学的には、心搏が停止して新鮮な血液の供給がなくなると、脳は4分間しか生きてないという。従って予期しない突然死の場合には、蘇生術が速やかに行なわれる必要である。

こうして蘇生した患者は、意識不明の間に見た体験を語り、それが沢山の本となって アメリカや日本で出版されて、現代の人々に大きなインパクトを与えた。

しかしこうした話は最近始まったものではなく、世の東西をとわず、昔から伝えられ てきている。そしてそれが宗教的行事の行なわれる一因ともなっていると考えられる。

中国の民間信仰では、死者は冥土の閻魔王の前で自分の地上での善悪決算書を報告しなければならない定めとなっているが、この話のもとになったエピソードが伝えられている。唐の道明和上が大歴13年(778)2月に、冥界におもむき、閻魔王の取調べを受け たが、人違いであることがわかり蘇生した。そこで冥界で見てきた審判の様子を伝えたことが『十王生七経』などの経典に表され、それが日本にも伝わってきた。こうしてみ ると、世界の宗教や民話に描かれている霊界の様子も、こうした蘇生した人が語り伝えた話がもとになっているのかも知れない。そこで、今回は日本・中国を中心に蘇生した 話を集めてみた。

 

江戸時代の話

資料は旗本根岸鎮衛が、天明から文化にかけておよそ30年間、見聞きした奇談を収録 した『耳嚢』他である。

●子供の情が通じて蘇生

大阪の事、ある町家の者が狭心症で亡くなった。残った遺族は5、6才の子供と妻だけなので、念仏講仲間や身元引受人などによって、早桶(安物の棺桶)が用意され、そこに死骸を入れる前に、沐浴して頭をお坊さんのように剃った。するとその髪の毛が襟の まわりにこばれ落ちた。これを子供が見て「剃り落とした髪が襟についたら、痒いだろうから、取ってください」としきりに頼んだが、「死んだ者がかゆいと感じることはない」と突っぱねた。しかしそれでも子供はしきりに頼むので、思いやりのある男が、「それまでいうなら取ってやる」といい、剃刀をもって襟のところの毛を取ろうとして、あやまって皮膚を切りつけた。すると黒い血が出て、死人が「う〜ん」と言って息を吹き返した。それから養生してほどなく全快し、元のように働くようになった。その子供は後々まで孝行という評判だった。(「耳嚢」八巻)

●冥土で地蔵にあった老女

牛込の小林方に老女が住んでいたが、意外なことに急に病気となり亡くなった。近く の人も死者の名を呼んだりして騒いでいるうちに、生き返った。しばらくして元気になり、死んだときの様子を語ってもらった。「本当に夢のようで、旅に出る気分で広い野に 出たのだが、どこへ行ったらよいかもわからない。人家のある方に行きたいのだが、方角がわからないので困っていると、そこに地蔵様が通りかかった。そこで呼びかけたが、 答えてくれない。まあこの地蔵さんのあとをついていけば、悪いこともないだろと、あとをついていくと、この地蔵さんの足が早く、なかなか追い付くことができません。そ のうち足元より声をかける者があるので気がついたら、蘇っていた」と語った。これは小林の親友が伝えた話である。(同二巻)

●死人に薬

文化7年の7月に聞いた話である。田安の屋形は馬飼であるため相部屋に6、7人いた が、右のうちの1人が吐く気を催して大変に苦しんだ。相部屋の者どもがいろいろと介抱し、医者にも連絡したが、時期が悪く医者はやってこず、一日中苦しんでついに亡くなっ た。相部屋の者たちは、「仲間が病に倒れたが、薬も与えることができなかった。大変残念である。いずれ上役の者に願い出て、今からでもいいから薬を飲ませて、心残りのな い様にしたい」と、その旨を上役に申し出た。すると早速近いところであるというので医者の小島活庵方に申し付けると、活庵は留守だったので子息の安順が代わりにその病 人を見届けることになった。しかし死んで時間も経過しているので、「四肢も冷え、治療するには及ばない」と断りを述べた。すると相部屋の仲間たちは、「言われることは大変 もっともであるが、急病とはいえ、薬一つ飲ませなかったと考えると、大変に心苦しいので、たとえ死亡していても、薬を一つ給わりたく思う」と願い出た。安順もその意を くんで薬をおいて帰った。さて残った仲間たちは、その薬を煎じて口に流し込むと、薬は口から洩れ咽に溜まって効き目があるようにも見えないので、脇に置いておいた。そ れから2、3時過ぎると息を吹き返し、早速粥などを飲ませて、安順の所にも使いをやった。これには安順も驚いて急いでやって来て、その様子を見て、「これならば治療もでき る」といって薬を与え、ついに回復した。

仲間が「向こうはどうだった」と感想を問いただすと、「最初病気になった時には、大 変苦しくてどうしようもなかったが、そのうち夢中となり、何か広い原に出たので向こうへ行こうと思った。すると道が二岐に別れ、一つは登り坂、一つは下り坂であった。ただし下りの方が険しそうなので、登りの方を行こうと思った。」そのときこの男がかって心をかけたことのある本郷当たりの町人の娘に行き合い、互いに一人では心細いので一緒に行こうということになった。しかし娘は下り坂の方に行くべしというので、別れ別 れになった。ほどなく向こうの方から赤い着物を着た地蔵が現われ、男にどこに行くのかと尋ねた。男はあらましを語り、自分は死んだのかと聞くと、「汝思い残すことはある のか」というので、何も思い残す事はないが、まだ在所に両親があって、久しく会っていないので、対面してみたいと語った。すると帰してやるといい、後に戻ると思っていると、何か咽に湯水のようなものが入って来て蘇った。これは針医者から聞いた話である。(同九巻)

●死の予告

文化6年のことである。赤坂の裏伝馬町に青物商いをする吉兵衛という71才の者がい た。彼は富士浅間を信じて富士山に参詣し、去年まで43回参詣した。「今年の2月26日には死去致しそうろう」と言って、知合いに暇乞いをして、1月18日から絶食して水と酒しか口にしなかった。

2月1日菩提所である赤坂の浄土宗常教寺に出向き、「26日に死去致しそうろう」と書いて届けた。しかし「当人の届けは承知できない」と言って笑われるので、同じ町の政右衛門という者に届けておき、2月3日から水だけをとり、2月27日明け6時に死去した。しかし昼頃に再び息を吹き返したため、付き添いの者たちも水を飲ませ、おも湯などを食べさせると、舌も少しづつわかるようになった。「心に願いがあったので、蘇生したの である」と語った。もっとも、死去のおりに知人どもが香典などを送り、金一両三分二朱ほど集まったが、それぞれに差し戻したそうである。(同十巻)

●経帷子の女

ある家の召使いの女が死んだので、桶に入れて寺に送ったが、大雨で墓穴を掘ること もできないので、桶と一緒に蔵のなかに置いておいた。翌日白い経帷子を着た者がよろよろとしながら出てきて仏壇のところにやってきた。そこで若い同宿などがあわて騒い で逃げていった。この様子に住持が出てきて様子をたずねると、どうやら女が蘇って桶を押しやぶって出てきたものと判明した。そのあと食事をとらせてすっかり生気を取り 戻した。髪はすでに剃ってしまてあるので、尼になって出家したそうである。こうした話はよく耳にする事である。(「窓の須佐美」追加)

●禅者の見た死後世界

壬生の僧侶順正に聞いた話に、有馬山石文が死んで、19日目に蘇った。その後、人は 冥土の事を聞いてくるので、それに答えるには、「ただ湖山のなかにあって、素晴らしい風景を見ただけで、他に何も見なかった。これは思うに、私が昔比叡山に登り、湖水を 見、大変感動して、いつまでも印象に残っており、時々もう一度見たいと思っていた。冥土で見たものは恐らくこれであろう。平生心の中に一物もなかったためである。」

石文のこの言葉は大変に素晴らしい。禅をやっているからで、そうでなかったらきっ と地獄か極楽を見たというに違いない(「閑際筆記」上)

●溺死者蘇生術

摂津の国多田で溺死の人を治す事について。先ず死人を雌の牛の背中にうつ伏せにくくりつけ、そのあと牛の尻をたたく。すると牛はこれにおどろいて歩き、その度ごとに死人の腹を押さえるため、口や鼻から水を出すのである。こうして水をよく出してから、牛の背中からとき下ろして、死人をわらの灰の上に寝かせる。そして前後からわらを焚いて暖めれば、息を吹き返す。気付け薬などを与え、お粥をすすめれば、しばらくすれば蘇生するという。(「譚海」)

 

明治時代

資料は、民俗学者の柳田国男が岩手県遠野地方で採集した習俗、珍しい出来事を集めた「遠野物語」である。

●蘇生した伯父

町役場に勤めている人の語った実話で、この人の伯父が病気で寝ていた頃のこと、あ る夜家の土間に行きかかると、馬小屋の口から火の魂がふらふらと入って来て、土間の中を飛び回った。男はほうきをもってあっちこっち追い回した後に、これをたらいの下に追い伏せた。しばらくして外から人が来て、伯父様が危篤だからすぐ来てくれと言う。男はあわてて土間に降り、伏せておいたたらいを開けてから、出かけた。ほど近い伯父の家に行ってみると、病人は一時息を引き取ったが、たった今生き返ったのだという。少し体を動かし、薄目をあけて男の方を見ながら、「俺が今こいつの家に行ったら、ほうきで俺を追い回したあげくに、とうとう頭からたらいをかぶせやがった。ああ苦しかった」と言って溜息をした。(柳田国男「遠野物語拾遺」151)

●蘇生した子供

遠野裏町のある家の子供が大病で死にきれた時のことだという。平常この子を可愛がっ ていた人が、万福寺の墓地に行って墓の掃除をしていた。するとそこへその子供が遊びに来た。今ごろ来るはずはないが、何でこんな時に墓場なんかにやって来たのだ。早く家に行け、と言って帰した。しかしあまり気がかりであったから寺の帰りにその子の家を見舞うと、病人は先刻息を引き取ったが、今ようやく生き返ったところだと言って、皆の者が大騒ぎと最中だったという。(同152)

●治療ミスから一命をとりとめる

先年佐々木君の友人の母が病気にかかった時、医師がモルヒネの量を誤って注射したため、10時間近い間仮死の状態でいた。午後の9時頃に息が絶えたが、翌日の明け方には呼吸を吹き返した。その間のことを語って言うには、自分は体がひどくだるくて、歩く我慢もなかったが、向こうに美しい処があるように思われたので、早くそこに行きつきたいと思い、松並木の広い道を急いで歩いた。すると後の方からとうとう、耳の側に来て呼ぶので仕方なしに戻って来た。引き返すのがたいへんいやな気持ちがしたと。その人は今では達者になっている。(同155)

●三途の川から戻る

死の国へ行くには川を渡るのだといわれている。土淵村の瀬川繁治という若者は、10年ほど前に急に腹痛を起こして意識がなくなった。呼吸を吹き返した後に、ああおっかなかった。おれは今松原街道を急いで歩いて行って、立派な橋の上を通りかかったところ、唐鍬をもった小沼寅爺と駐在所の巡査がおれをさえぎって通さないので戻って来たと語ったそうである。この若者は今はすこぶる元気になっている。(同158)

●お産での危篤から蘇生した女

佐々木君の友人の妻が語った話である。この人は初産の時に、産が重くて死にきれた。 よく憶えていないが、どこかの道をさっさと歩いて行くと、自分は広い明るい座敷の中にはいっていた。早く次の間に通ろうと思って、襖を開けにかかると、部屋の中には数え切れぬほどの大勢の幼児が自分を取り巻いていて、行く手を塞いで通さない。しかし後に戻ろうとする時は、その子らもさっと両側に分かれて道を開けてくれる。こんなことを繰り返しているうちに、誰かが遠くから自分を呼んでいる声が微かに聞こえたので、いやいや後戻りをした。そうして気がついてみると、自分は近所の人に抱きかかえられており、皆は大騒ぎの最中であった。この時に最初に感じたものは、母親が酢の中に燠を入れて自分にかがしていた烈しい匂いだった。(同159)

 

中国の話

中国の蘇生譚は2つの「型」があるように思われる。1つは冥土の世界をリアルに描写して真実味を出す。冥土に行く主人公は、一旦死を体験するが、何らかの理由によって現世に帰される。そしてこれをきっかけにより信心深くなるというものである。こうした話を「入冥譚」といい、中国では六朝時代(222〜589)以降の記録説話のうち、多くの話が残されている。

●地獄の沙汰も

湖北省の李除という人が疫病にかかり死んだ。その妻が通夜をしていると、真夜中になって死体が起き上がり、急いで妻の肘にはめた腕輪を取ろうとする。そこで妻はそれを外すと男はそれを握り締めてからまた倒れた。妻が様子を見ているうちに、明け方になって胸のあたりが少し暖かくなり、息を吹き返した。そして話をした。

「冥界の役人に連れて行かれたのだが、中にはワイロを使って逃れる者もいたので、自分も役人に金の腕輪をやると約束したのだ。それで腕輪を取りに家に帰り、それを役人に渡した。役人は腕輪を受け取ると、私を放すと、腕輪を持ったまま行ってしまったよ」

ところが何日かたって、思いがけずその腕輪が妻の着物のなかにあるのを発見した。しかし妻はそれを身につけようとはせずに、まじないをしてもらって、埋めてしまった。(「捜神後記」)

●冥界の点呼

元和12年に昌時という人が青陵城で戦った。この戦いで昌時は首の後ろに矢を受け、馬から落ちて息が絶えたが、その夜の2時頃、ふと我にかえった。すると将校が兵士の名前を呼び上げている声がする。1人1人名前が呼び上げられていき、昌時はいまに自分の名前も呼ばれるのだろうと、じっと耳をすましていた。しかし最後まで自分の名前は呼ばれなかった。そのうちに夜が明け、意識もはっきりしてきたので、苦しいのをこらえて起き上がってみると、左右に転がっている死体はすべて昨夜、名前を呼ばれた人達であった。それであれは冥界の点呼であったと気がついたのである。昌時はそこで自分は死ななかったのだと気づき、歩いて陣地に帰ったが、一月あまりして傷もなおった。(「博異志」)

●死出の道づれ

山東省の祝村に祝という老人がいたが、病気で死んだので、家の者が喪服を整えていると、老人の叫ぶ声が聞こえた。部屋に行ってみると、老人は生き返っており、老婆に向かってこう言った。「わしは帰ってこないつもりだったが、お前のような年寄りを子供にまかしておいては心配だから、また戻ってきて、お前と一緒に行こうと思うのだ」皆の者は、生き返った者のでたらめだと思い、信じもしなかったが、老人が繰り返して言うので、老婆が「それもよいでしょう。しかしいま生き返ったばかりで、どうして死ねますか」と言うと、老人は「それはわけもないことだよ。家の用事を早く片付けてしまいなさい」老婆が笑っていると、老人はなおも急き立てるので、老婆は一度外に出てしばらくしてから戻って来て、「すっかり片づけましたよ」と、だました。すると老人は早く身支度するように言い付けせき立てた。老婆は夫の気持ちに逆らうのも悪いと思い、とうとう着替えして出てきた。老人は頭を枕につけ、手をたたいて妻を寝させようとした。老婆が、「子供たちがみんないるのに、並んで寝るのはみっともないですよ」と言うと、「並んで死ぬのがどうしておかしいものか」そして老婆は言われるとおり枕を並べて寝た。家の者はそれを見て笑った。するとそのうちに老婆の笑い顔が消えて、全く寝込んでしまったようなので、みんなが近づいてみると手は冷たくなっており、息もなかった。老人を見るとやはり同じなので、はじめて皆驚いてしまった。(「聊斎志異」)

●坊さんの体験談

晋の沙門支法衡は病気にかかってから10日で死んだが、3日ののちに蘇生し、死んだ 時のことを語った。

それによると、1人の男が彼を連れ去り、役所に行ったが、どこも引き取ってくれな かった。すると急に鉄の車輪が西の方角からあらわれた。回している人はいないのに、風のように早く回転している。すると1人の役人が罪人を呼んで車輪に向かって立たせると、車輪は回転して鉄の爪でこの人を轢くと、くるりと元に戻っていった。役人は支法衡を呼びに来て車輪に向かって立たせた。支法衡は恐れおののき、自責の念にかられ、これまで精進しなかったことを悔いた。すると「道人、行くがよい」という声がした。そこで仰向くと、天に穴があいており、訳が分からないまま体が上昇し、頭をその穴につっこんで。頭を出し四方を見渡した。そこには七宝の宮殿や、天人たちが見えた。支法衡は上に上がろうとしたが上がれないので、また下界に連れていかれた。

そこで支法衡は船役人に引き渡された。役人は船を出し、舵取りをしろと言った。数百の船が後からついてきたが、船は浅瀬に乗り上げてしまった。役人は「先導しそこなったので、断罪に処す」と言って支法衡を岸に引っ張り上げ、切ろうとした。しかし龍が出てきて船を再び沖に押し戻したので、支法衡は許されてそのまま船で北に向かった。すると岸辺に村が見えてきた。支法衡はこっそり岸に上がり、西北にお寺が見えてきた。とっさに支法衡は堂に行き、階段に足をかけると、そこに死んだ和尚が椅子に腰をかけおり、支法衡の姿を見ていった、「我が弟子呼。一体どうして来たのかね」といい、立って階段のそばに来て、「来てはならぬ」と言った。支法衡は上がりたくてたまらず、階段を登ろうとすると、和尚はまたも下へ押し戻した。支法衡はふと平地をみると井戸が一つあり、とてもリアルに出来ていた。もう一度、和尚の方を見ると、「来た道を引き返すがよい。」と言った。そこで水辺まで帰ると、さっきの船は見当たらなかった。そこで水を飲もうとしたところ、そのまま水の中に落ち、そのとたんに生き返った。(「冥祥記」)

●臭い死体には戻りたくない

趙の石長和は19歳のとき、病気になり一月余りで死んだ。しかし家が貧しかったので、時期をはずさないと納棺することができないため、そのままにしていると、4日目に生き返って話をした。

死んでから、東南へ行くと、2人の人が道を工事をしていて、彼の50歩前におり、彼の歩みの速度に合わせ、絶えず50歩の間隔を保っていた。道の両側はイバラが密生して、大勢の亡者が刺の中を群がって走り、地面一杯に血を流していた。しかし和だけが平の道を行くのを見て、皆驚いて、「仏弟子が1人だけ通りを歩いてる」と言い合った。さらに進むと大きな館が見えた。そしてそこにすでに亡くなった友人夫妻の姿を見つけた。この2人は館の主人の手伝いをしていた。主人は和に「君はどうゆう修業をしたのかね」と尋ねた。「肉魚を食わず、酒もたしなまず、常にお経を読んで、諸々の苦患を救っておりました」しばらく話し合ってから、主人は審判部の人に、「石君の記録をもう一度調べよ。間違いがあってはならないから」と命じた。男は帳簿を調べてみて、「30年の命が残っております」と報告した。そこで、馬をつけた車を用意させて、2人の役人に送らせるように命じた。またたくまに家に着いたが、自分の死臭が鼻について、死体の中にもどる気になれず、その枕もとに立っていたところ、そこにいた彼の死んだ妹が後ろから押したので、死体の上に倒れ、こうして生き返ることができた。(「同上」)

●折角の蘇生も

河南の馬磐という人は、文才があり人格者であった。この人に教えを受けた者たちは、試験に受かる者が多かったが、彼だけは地方試験にも合格することなく、貧乏な生活を続けていた。娘も年頃になったので嫁に出す資金もなかったが、人々が醵金して嫁がすことができた。

ところがこの娘が里帰りした折に、風邪にかかって死んでしまった。その夫の家は遠く、ちょうど夏であったので、彼の来るまで待っておれなかったので、今度も借金して葬儀を営んだ。さて納棺したところ、内から声がして、「生き返ったよ。蓋を開けて」と叫んでいる。そこで蓋を割って出してやり、その死装束をすっかり脱がせると、もと通りに元気になった。

その晩、家の者はぐっすり寝込んでいるところに泥棒が入って衣類をすっかり盗んでいった。明くる朝、役所に届け出て、泥棒は逮捕されたが、今度は娘が死んでしまった。(「鶏肋編」)

 

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