1988.10
儒教の葬送儀礼

孔子(BC55l〜479)の教えは門弟たちによって大成され、儒教として展開した。儒教が中国の国教となったのは漠の武帝(BCl4l〜87)の時である。古来より儀礼を重んじた儒教では、葬儀は「儀礼(ぎらい)」「礼記」「周礼(しゆらい)」の三礼によって行なわれていた。韓非子が「儒者破家而葬」(儒者は葬によって家を破る)と批判したように、多額のお金を使い複雑な葬儀を行ない、長い喪に服した。そうすることが孝と考えられていたのである。

儒教では陰陽の説に従って、人は死後魂と魄(はく)とに分かれ、魂は陽に従って天に昇り、魄は地に降り、陰に従うとされた。このため魂は位牌にまつり、遺体は土に埋めて土葬とした。そして死者は、死後も生前と同じように生活すると見なされていた。

死が近づくと、その病人を北窓の下に頭を東向きに寝かせ、病人の口と鼻に綿をつけ、その動きによって死期を知った。死ぬとすぐに哀哭し、「復」という招魂を行なった。屋根に上り北にむかって大声で死者の名前を呼び、天に昇る魂を呼び戻そうとしたのである。死体を沐浴させ、爪を切り、死装束を着せ、食物を与えた。親戚、友人は紙銭をもって弔問し、その紙銭は炉で燃やされた。それは冥界の通貨となると考えられていた。庭には神を依らせる「重(ちょう)を立て、そのうえに死者の姓名官位を記した「銘」をのせた。

亡くなった翌日には遺体を整え、衣装を加える「小斂」の礼を行ない、その翌日には場所を移して、同様な仕方で「大斂」の礼を行なった。その後納棺し、殯宮に安置する「殯(ひん)の礼が行なわれた。この間、遺族は死者との関係に従って、厳格な服装規定に従い、たびたび悲しみを表わす舞踏が行なわれた。

天子は7カ月目に埋葬された

次に陰陽風水説によって埋葬の場所、日時の吉凶を占い「葬」の礼を行なった。これは天子は7カ月目、士大夫は3カ月目と決められていた。

埋葬の日には「重(ちょう)」を先頭に柩車を墓まで運び、棺と明器を埋葬した。家に帰ると、祖廟と殯宮で声を上げて泣くのである。その後も「虞祭」といって殯宮で死者の精霊を迎え、平安を祈る礼が行なわれる。

葬儀の仕上げでは死者を祖先の廟に合祀する「ふ祭」が行なわれ、これにより、死者の霊は福をもたらす善なる神にかわり、これ以後礼は、凶礼から吉礼にと変わる。

日本にも伝わった儒教儀礼

父母が亡くなったときには3年の喪に服することが決められていた。この間は、士大夫は公的な仕事から退いた。13カ月目には「小祥の祭」、25カ月目には「大祥の祭」を行なった。

六朝時代には、仏教、道教の葬礼も確立し、これ以後3つの宗教はお互いに影響を及ぼしながら、歴代の皇帝の宗教政策によって栄枯盛衰し、葬儀もそれに従った。朝鮮では、儒教が広く受用され、儒教葬もよく行なわれていた。日本では仏教の影響が強く、儒教葬は殆ど行なわれなかった。しかし朱子学が奨励された江戸時代には、朱子の儒教儀礼を集大成した「文公家礼」に基づいて、水戸光圀が儒教葬を奨励したという歴史がある。

(吉野)

 

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